「自由」ってなんだろう

自由に生きたいとは、誰でも思うことだろう。

したいときにしたいことが出来ること。
たとえば旅行に行きたくなったら、いつでも行けること。
欲しい物はいつでも手に入れられる。
こういう風だったら「自由」に生きていると言えるのかもしれません。

不動産を持っていて、働かなくてもいい人を知っています。
彼は大きなヨットを持ち、レースだとかクルージングだとか楽しんでいます。
確かに自由に生きているように見えます。
でも、その人を見ていても、そうなりたいとは思わないんです。
これはなぜでしょうか?

嫉妬しているということも確かにあるだろうと思います。

元々そういう境遇に育った訳ではないので、
自分がそういうことが出来るとは、とうてい思えないんですね。
そんな立場に立つというのは想定外のことなんです。
だから、そういう生活には共感出来ないんじゃないでしょうか。

じゃぁ、今の僕にとっての「自由」とは何でしょうか?

以前にこんな話をきいたことがあります。

南の島の原住民が、忙しく働いているビジネスマンに聞いたんです
「なんでそんなに忙しく仕事をしているのかね?」
ビジネスマンは答えた
「成功して、南の島を手に入れてそこで思う存分ゆっくりするのさ」
原住民は言った
「なんだそんなことか。それならわしは生まれたときからそうしているさ。」

確かにこの原住民は生まれた時から自由を満喫しているのでしょう。
それはそうなんですが、そういう生活にはあまり魅力を感じなくて、
その一方で、このビジネスマンのビジョンには共感するところは大きいんです。
今の仕事で成功して、大金を手に入れて後は悠々自適・・・
こんな風に出来たらどんなに幸せだろうか・・・なんて考えてしまいます。

原住民の生活は、元々とっても開放されていて・・・本当に「自由」に生きてるのです。
でも、そういう生活ではなくて「努力して手に入れる自由」を求めるのはなぜでしょうか。

だいぶ前に「10年後のなりたい自分」というのを考えたことがありますが、
なんと、「忙しく仕事をしていて・・・」というのがアタマに入っていたのです。
理想の生活というのだから、一日中のんびりしていて何をやるのも自由で・・・
なんてことを想像しても良かったのに、そうではなかったんですね。

想像するだけならまったく何の制約もないはずなのに・・・
これはどういうことなんでしょうか?

つまり、僕にとっての自由とは「元々誰にでも与えられている」ものではなくて、
忙しく仕事をして・・・「努力して手に入れる」ものだから、
何もしないで、そんなに簡単に手に入れるなんてとんでもない!・・・
こんな風に思いこんでいるんですね。

こういういわゆる「思いこみ」、他の表現では「価値観」とか「道徳」とか
言っても良いと思いますが、長い時間をかけて人間が社会的な生活を営むなかで
醸成されてきたものでしょう。
そして、親から子へと連綿として受け継がれて行くのです。
ある意味では貴重な社会的財産といえるでしょう。
ひとつの価値観をよしとするか、はたまた違った価値観をよしとするか、
それは個人個人の選択に任されているのです。

と、・・・いろいろ理屈を言っても、
僕の場合はいま述べたように条件付けられてしまっているわけですが、
他の人ならまったく違うかもしれません。
でも、基本的なところは変わっていなくって、
みんなが自由に生き始めたら社会は成り立たないという考え方が
底流に流れているように思えます。
いつのころからか受け継がれてきた、この「条件付け」を背負って生きている訳です。

でも、ほんとうはそんな条件付けは必要無いのかもしれません。

ひょっとすると、この壮大な物語そのものがエゴが創り出した幻想なのかもしれません。
本当はみんな「元々自由」だし、元々何の制限も課せられてはいないのかもしれません。

ただ、内側からわき出てくる想いに従って、
生きたいように生き、楽しみたいように楽しむだけで、
すべてうまくいくように、元々なっているのでしょう。

そう、きっとうまくいくのだ・・・そのことを信じよう・・・そう思うのでした。

閉じる