浅草雑記




 写真が変わります
 浅草にはよく出掛けます。
 女房の実家の墓が、菊屋橋にありますので、墓参りに行きますのと、近県に散らばっている昔の友達と、雷門の交番前で落ち合う事が多いので、何となく浅草が身近になつています。
 旧友と顔を合わせ、観音様にお参りして、もう暫くこの世にご縁があります様にとお願いして、ご飯を食べて帰つて来るだけですが、何とは無しに心休まる土地になつて居ります。

 


写真が変わります

 浅草と、老生の馴染みは古いです。
 記憶にある限りで云えば、昭和7年の12月 仲見世と新仲見世と交差する角の店で玩具の映写機を買つて貰い、有頂天になつて家に帰つた覚えがありますから、その頃から、浅草との付き合いが始まつた云うことになります。

 母親が シバヤ (芝居) が好きで、宮戸座で、当時人気の沢村伝次郎を観た記憶があります。 
 観音様の物日 歳の市とか、四万八千日 初参りは大抵、観音様になつていましたから、浅草には子供の頃から。御縁がありました。
 浅草に連れて行つて貰えると聞きまきますと、期待で胸が躍りました。
 浅草に行けば、何かしらよい事がある。
 普通に行けば、お昼は大抵すしや横丁でお寿司を食べ、帰りがけには蜜豆が食べられ、更に上手く行けば、仲見世で50フイト50銭の古フイルムを買つて貰える筈で、万一、親が忘れた振りをして、買はない算段をすれば、当方としては駄々を捏ね、通りに座り込みをして、泣き喚けば親も閉口して、買って貰えると云うわけで、泣く子と地頭には勝てぬと、相場は決まっております。
 
 老生は往来で駄々を捏ねている子供を見ると、密かなる声援を送り、願望の成就達成を切に祈り、内心で事の成就を祈つているので有ります。
 
 嗚呼、浅草よ、浅草は、将に地上の楽園でありました。

 
                                       
                              伝法院                

        
伝法院 表門
 伝法院の庭は、小堀遠州の設計で、良く旧形が保存されて居るので有名です。
 昔は裏門から 管理人の方に断りますと、気軽に見せて頂けましたが、今では拝観でき無くなりました。
 高見 順の「如何なる星の下に」で、この庭に入ると、六区や仲見世の騒音が潮ざえのように遠くから聞こえて来ると云う一節がありますが、この庭には特別な機会が無いと入れず、そうしたさ雰囲気に浸る事が、出来無くなつて仕舞いました。

弁天山
 弁天様は芸事の神様で、弁天山には 扇塚 やら 常磐津塚、色々と芸事に関連したて碑が立つていますが、中でも異色なのは、都々逸節の創始者都々逸坊扇歌と、ノンキ節の添田唖然坊の碑です。
 今、ノンキ節とか都々逸とか云いましても、歌う人も聴く人も居なくなりました

鐘は上野か浅草かと云う 浅草の鐘と石垣は
残っております。
都々逸塚
 

 昔は人寄せがあつて、お酒が入ると、小父さんが小唄、端唄なぞを歌い、アンチャン達が浪花節や都々逸なぞを、町内のお師匠さんの三味線で、良い気持そうに唄うと、周りの連中は、ヨウヨウなぞと手を叩き、特に芸自慢で清元、新内なぞのサワリを語りたくてウズウスしている小父さんには、抜からずに「芸惜しみは無しだよ、そろそろ真打の出番だょ」なぞ水を向け、「よいしょ」をする礼儀正しい、おじさんや、おにいちゃんがいました。
 若い芸無しが流行歌を歌いますと、お師匠さんは抜かりなく三味線で 愛染かつら むらさき小唄 なぞの伴奏を付けてくれました。 

 現在では一杯入つてご機嫌になると、カラオケと云うやつで、声震わせて得意の歌こを披露するご時世で、一時は部長のカラオケと云うのがありまして、同行の部下が自分の番が来たら歌う曲目なぞを物色し、偉い人の熱唱に耳を傾けずにいると、後日、それを覚えていて、業務成績査定に当り「彼は集中力が不足しているようじゃからね」なぞと、評語されて成績に関係して来るとかで、カラオケも大変に難しいのだそうです。
 
 近頃の歌は、飛んだり跳ねたり、身振り手ぶりも忙しく、歌っている歌詞は意味不明で、祭文を聞いている様な具合です。
 演歌の歌手は大体が大年増で、これが大振袖で現れ、一応のそれなりに美人であり、悩ましげな表情で身振りよろしく、大口開いてマイクを飲み込まんばかりに熱唱し、唄い終わると艶然と微笑み、握手なぞをサービスして、舞台を去るのであります。
 
 老生の尊敬している名女優、彼の高峰秀子さんに云わせますと、近頃はゼニを取つて歌を聴かせる歌手が、マイクを口の中に押し込む様にして歌い、甚だ見苦しく、嘗ての 東海林太郎 の様に格調高い歌い方の歌手は居なくなり、素人と玄人の差が、無くなつたとの事ですが、全く同感であります。
 
 東海林太郎、霧島 昇、藤山一郎なぞと云う人は堂々としておりました。
 彼の一世を風靡した、美空ひばりが本水を流して「悲しい酒」を唄うのをテレビで観ました。
 誠に天性の美声で不世出の天才歌手でありましたが、かつての少女歌手も、最早過去の人となつて忘れられております。
 況してや、都々逸、ノンキ節、小唄端歌、等の明治の初頭に流行した歌曲、大衆芸能は現在全く姿を消したのは、当たり前なのでしょうが、多少、寂しい思いも致します。
 

柳家 三亀松 石田 一松 添田 唖然坊

 浅草の花月劇場に、木場の仲乗りから、道楽の果てに芸人になつたと云う、チョツト、エッチな 美声で鳴らした、柳家 三亀松 と云う人が出演しており、小唄、端唄、都々逸、新内、声色から形態模写と云う、役者の身振り手振りに加えて、漫談まで聴かせて呉れる、誠に楽しい天才的芸人がいました。 
 
新婚熱海の一夜と云う、結婚式を終えた新婚さんが、宿屋で恥ずかしがる御嫁さんと一緒にお湯に入つたら、御嫁さんが出臍だつたとか、そんな歌謡漫談をレコードを出して、忽ち発売禁止になりましたが、それがかえつて人気になり、お客から盛んにリクエストされていました。
 三亀松は嬉しそうな顔をして、「お廻り [巡査] は居ねえか」 と臨見席、警察官が検閲する席を小手を翳して眺め、「いねえようだナ、それじゃ内証でちょいとだけやる」かと、徳川夢声の声色で東京駅から、新婚夫婦が二等車で熱海(
その頃新婚旅行と云えば熱海でした)に出発する所から始まり、熱海に着いてお婿さんがお嫁さんに一緒にお湯に入ろうと誘うと、お嫁さんは恥ずかしがつて同意しません。お婿さんは色々に説得して、やつと風呂場に行きましたら、お嫁さんは出臍で有った、と云う所までやつて、「後はだよカット」と云いながら、嬉しげにニヤニヤと笑い、且ついゃらしくお客を見回し、最後には当時人気絶頂の長谷川一夫を肴にし、「近頃の女共は長谷川、長谷川と云いやがつて、オレの事をサンカメマツつて云つてやがるが、お客さんの前だがね、男は姿や形じゃあないょ、オレの物の方が長谷川の物より、ずつと立派で味が好いぞォーー」ここで観客は大いに喜んだのです。
 
 
この人 CD は今でも売り出されておりますので、興味をお持ちの方はお求めの上、往時をお忍び下されば幸であります。

 同じ劇場に石田一松と云う世相風刺と、漫談的解説を付けたノンキ節と云う歌を自分でバイオリンを曳きながら、唄い、且つ世相を談じる芸人がいて、大変人気が有り戦後参議院選挙に立候補して、街頭演説の替わりにのんき節を聞かせ、ダントツで当選して、タレント議員第一号となりましたが、二回目の参議院選挙であえなく落選し、ノンキ節と共に消えてしまいました。

 扇塚に古い舞扇を納めると、芸の上達が早いそうです。
 弁天様は芸事の神様で、美人を見て「ドウダイまるで弁天様みてぇじゃねぇか」と云いました。
 そんな感じの人が古い舞扇を扇塚に納め、ぽんほんと柏手を打つ姿を見たいと思っておりますが、不幸にしてそう云う方と出会いません。
 誠に遺憾な事であります。
 
 今では日本舞踊をお稽古する方が少なくなり、その道の専門家が年に何度か舞踊の会を小屋を借りて開いて居る程度で、藤間、坂東、花柳、その他の各流、新舞踊と称する流行歌に合わせ、三度傘片手にやたらに、首を振る新舞踊とやら云うものを含め、日本舞踊を趣味で習う方が激減し、物の順序で扇塚に稽古扇を納める人が、極端に減つたようです。

 近頃、高齢なご婦人が、ダンスで足を痛められたとか、フラダンスをおやりになつてお風邪を召されたとか云う話を聞きますが、同じ踊るのなら、座敷舞なそをお勧め致したいと密かに思っております。
 その方が安全で、品もよろしく、奥ゆかしくもあります。

 鐘は上野か浅草かと云う、浅草の鐘は奇跡的に戦災を免れて健在で、弁天山に残つており、若き日の川端康成が書いた「浅草紅団」の舞台になつた処で、嘗ては良くない連中の屯していた場所であつた様です。
 
 老生が少年の頃には、この辺りにも街灯が点き、明るくなつて居りましたが、やはりおかしい奴が屯して、この辺りでそのテの連中に捕まりそうになり、夢中で遁走した経験があります。


金龍山浅草寺

宝蔵門 本堂

宝蔵門と五重の塔 淡島様
将軍様 専用の石橋 浅草寺最古の石造物 六地蔵

 寺伝によると、創建の経緯は次のとおりです。

 推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・墨田川)で
、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟と主人土師中知(はじのなかとも)が、漁をして居ると網にかかった、1寸8分の黄金の仏像、勿体なやと一礼して水中に戻して、さらに漁を続けると再度網に掛る。
 此のこと三度に及び、兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)今更らしく大いに驚き、河畔に草堂を作り、この聖観音(しょうかんのん)像を祀り供養した。これが浅草寺の始まりという事になつて居ます。

 昔の人は欲が無かったらしく、最初に網に掛かった時、有難くも喜んでポツポに入れて仕舞えばよい物を川に戻したと云う所が何とも嬉しい所で、欲の皮がツッ張つた今時の人間に此の人たちの爪の垢でも煎じて差し上げたいですが、なにしろ1380年前の話なので、残念ですが差し上げる事が出来ません。

 観音像は、高さ一寸八分(約5.5センチ)の黄金の像であると言われていますが、未だにこの像を拝見した人は居ないと云うことです。
 その後、大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺をさらに整備したと云う事になつていますが、考古学的には、この時期関東一帯は弥生の末期だつたと云いますから、寺伝はーーーなぞと怪しんではいけません。
 宗教には奇跡はつき物であります。

 平安時代初期の天安元年(857年)(天長5年−828年とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったと云います。
 これらのことから、浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称しております。
 雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの云い伝えがあり、この頃に寺観が整ったとされています。

 以上は 江戸名所図会 の解説に記されている事の引用ですが、浅草寺が文献に現われるのは鎌倉時代の『吾妻鏡』が初見だそうで、近世には徳川家の祈願寺に定められたこともあり、関東でも有数の観音霊場として多くの参詣者を集めた、と云うことになつておりまして、今日も多くの参詣人で賑わっております。

 浅草寺は関東大震災の時、全く損傷を受けなかつたそうで、流石は観音様だと、大変有難がられたそうですが、天変地異にはびくともしなかつたこの寺も、昭和20年当時の最新鋭爆撃機、B-29 のばら撒く焼夷弾には御利益を発揮出来ず、3月10日の大空襲で、二天門、三社宮を残して全焼して仕舞いました。
 誠に残念な話であります。


三社宮
 檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟と主人土師中知(はじのなかとも)を祭ったお宮が三社宮で、土師中知の後裔の方が、現在でもご本尊の御守をされて居ると云うから驚きであります。
三社様 三社宮 社殿 国の重要文化財
初代 中村吉右衛門の句碑 初代 猿翁 の句碑
 三社祭りは有名なので、此処では省略します。

被官稲荷

 被官稲荷は安政2年(1854)、新門辰五郎が伏見稲荷を分祀した社で、社伝には辰五郎が妻のお福の病気平癒を伏見稲荷に祈願した所、願いが叶つたので、そのお礼に浅草寺境内に伏見稲荷を勧進したと云う話です。

 被官とは出世すると云う意味があります。

 新門辰五郎は講談、浪花節、幕末を主題にした小説にしばしば登場する火消しの親方となつていますが、上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子で、輪王寺宮舜仁親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便のいい新門を造った時、その門番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれ、以降、浅草寺の掃除人足の仕切りを引受て、更に町火消し十番組としても、多彩な活躍をしたと云う人です。
 特に有名なのは、十五代様が大阪城から撤退したとき、権現様以来、将軍様の御本陣に置かれた金の御幣を置き忘れ、それに気づいた新門辰五郎が、金の御幣を担いで江戸まで引き上げて来たと云う話と、勝海舟が薩摩の西郷吉之助と三田の薩摩屋敷で、江戸城開城に関する話し合いをした時、徳川慶喜の助命、徳川宗家の存続と云う条件を出し、これが入れられない時には、新門組を初め江戸火消しを総動員して、市民を避難させ、同時に江戸に火を掛け、駐在している官軍を一挙に殲滅する作戦を立て居たと云う話で、新門辰五郎は、其れ程の大事を託される人でありました。
 
幸にも事は平和理に進められ、江戸の街は無傷で残りました。

 このお稲荷様の鳥居には「安政二年九月建之 新門辰五郎」と刻まれています。
被官稲荷 新門辰五郎 一間堂
 播磨屋親子の碑があります。
初代 吉右衛門 と三代目 時蔵の碑 中村米吉(勘三郎)と彼の父親歌六の碑

 ほうづき市と羽子板市
 
ほうずき市で写す

 浅草寺で夏に ほうづき市 が立ちます。この日にお参りすると四万六千日参詣したのと同じ功徳をうけると云うので、大変に混みますが、夏御召なぞを御召の方にお目に掛かれ、眼福を得ました。
 この日には、
雷避けのお札も出ます。
 今時、雷避けなぞと云いますが、変電所、発電所なぞ電力関係の会社の方が、このお札を受けられるそうです。  

 年末には 羽子板市 歳の市 があります。
 境内では羽子板市が、本堂裏の奥山では、お正月の松飾やら大神宮様なぞの市が立つて、今年も終わりかという気分にしてくれます。


 
浅草の観音様と仲見世は、昔と変わらぬに賑わいです。

六区随想
 浅草は嘗て東京一の盛り場でありました。
 多くの流行がここを発信源として、広がったと聞いています。

 1873年(明治6年)の太政官布告により、浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、1884年(明治17年)一区から七区までに区画されて、この時、浅草寺裏の通称浅草田圃の一部を掘って瓢箪池を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成、これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し、歓楽街を形成したと云う歴史があります。

 浅草六区の瓢箪池側には、柳が植えられて露天が並び、夏はアイスクリーン、カキ氷、ラムネの類、冬は甘酒に焼き芋の類、お祭りの露天をイメージして貰えば、大体間違いは有りません。

 ロック変遷史の詳細に興味をお持ちの方は、「どぜうの飯田」の前にある、「浅草文庫」で調べて頂くとして、ロックの隆盛に貢献した、喜劇人、活動弁士、捕り者小説の元祖岡本綺堂の半七塚なぞが、観音様本堂の横手、奥山通りの入り口にありますますので、往時を偲ぶよすがにでも、見物して頂ければと思います。
  
喜劇人の碑 岡本綺堂 半七塚
   

 明治16年、(1884)太政官布告により浅草奥山から境内一帯が「浅草公園」と命名され、一区より七区が誕生しました。

 この時浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成、これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から、見せ物小屋等が移転し、江川の玉乗り、曲芸、演芸場、先端的なオペラ館、活動写真館なぞ、の庶民の娯楽センターを形成しました。
   
 
六区の賑わいの一つの頂点は、無声映画の隆盛期であつたと思います。
 外国映画にしろ日本映画にしろ、同じ映画が弁士の芸で面白くも観られるし、詰まらなくもなりまして、同じ映画でも浅草は弁士が良いので、入場料は高かったそうです。
 
 日本映画が全てトーキーとなつて、封切り館が入場料50銭、二番館は30銭と入場料まで全国で同じになると、何も浅草まで出てきて、映画を見る意味が無くなり、映画を観る目的で六区に来る人達は減り、実演が盛んになりました。
 
  松竹少女歌劇のターキー、オリエ津坂、エノケン一座の松竹座であり、笑いの王国の常盤座、剣劇の梅沢 昇、金井 修、女剣劇 大江美智子、不二洋子、等が輩出し軽演劇とレビユー、、柳家三亀松、川田義雄とアキレタボーイズ、森川 信、及びその亜流が輩出したのはこの時期だと思います。

 こうして六区を支える主役は入れ替わりましたが、依然として娯楽の中心として、多くの人々が、観音様の方は失礼して。ロックに集まりました。

 老生が自前で浅草に出かけられる様になった頃は、新しい映画は 紅系 と 白系 と称する二系統で、一週間で同じ映画が紅白入れ替わり、つまり月に四本封切り映画があり、此れが大体戦意高揚映画でして、余り面白く有りません。
 古い映画は雨、つまり画面に映写機のフレームの傷が線状に入り、カムの送り穴が傷付いて、繋ぎに繋いで、封切り当時、一時間三十分あまりの上映時間だつた映画が、一時間程に損耗し、上映中に三回も四回も切れる様になつても、繰り返し映写されていました。
 
 こうした古もの映画が名画祭なぞと称し上映され、新しく封切りになつた映画より人気があつて、結構観客が詰めかけていました。

 この頃、時々生き残りの弁士による、無声映画大会がありました。

 熊岡天堂と云う弁士は、電気館で阪妻映画の説明を得意としていたそうですが、戦後「懐かしの無声映画」上映の幕間で、彼の阪東妻三郎が、出演映画の電気館封切日には、彼の映画の説明を得意とした、熊岡天堂に手土産を持つて、挨拶に来たと云う話をしていましたが、多分事実だと思います。

 浅草六区の繁栄を支えた活動弁士の記念碑が、本堂の横手にあります。
 生駒雷遊、徳川夢声、熊岡天堂、竹本嘯虎、大辻司郎、山野一郎、大蔵 貢、等の名が刻まれております。

ラモン、ノウバロ 市川百々之助伏見直江 林長二郎
弁士塚 一流弁士名が刻まれて居る

 戦争の最中に乏しい娯楽を求めて、六区は賑わっておりました。

 しかし、昭和二十年三月十日の空襲で、浅草寺が焼け落ちました。
  境内で残つたのは 伝法院、三社宮、二天門、弁天山の鐘楼、被官稲荷とその周辺てだけてした。

 この激しい空襲の中で、六区の劇場と映画館は、殆どが焼け残りました。
  常盤座とか、金竜館、江川劇場、大勝館なぞは、五月頃から興行を始め、鉄兜を背負い、防空頭巾の観客が詰めかけたと云うことです。
 
 艦載機が飛来し、空襲警報が一日に何回も鳴り響く中、命がけで娯楽を求める観客で、六区は賑わいました。
 
 昭和二十年八月十五日、敗戦。
 
 戦争が終わり、安心して映画が見られるようになりました。
 一階は縁台を並べ、二階は椅子が無く、階段状になつた床に座り、焼け残りのフイルムが上映されて、どこも満員の盛況でした。 
 
 瓢箪池のほとりに露天が出て、蒸かし芋、怪しげな饅頭、なぞが一皿十円で出てきました。
 映画や芝居の入場料も、五十銭、一円、一円五十銭、三円、五円とみるみる裡に高くなりましたが、それでも浅草六区は、空前の賑わいを取り戻しました。

 映画館は何れも満員。
 国際劇場も開場して、観客の長い行列が出来て、五千人入れる大劇場が超満員。

 水之江瀧子 、オリエ津坂、南 里江、小倉みね子、戦前のスターの後、川路竜子、曙 ゆり、 小月冴子、と云う人達が華やかな舞台を作り出し、アトミックカールズ、エイトピーユティズ、なぞと云うダンシングチームが、大変な人気で、踊りの SKD  歌と芝居で宝塚と云う定評でありました。
  
 浅草寺五重塔再建のために通称「瓢箪池」が埋め立てられ、跡地に東宝が進出して来ましたが、皮肉にもその頃から、ロックの賑わいに翳りが見え始めました。

 軽演劇、女剣劇も、ストリップに押され、幕間に演じられたコントが、嘗ての実演の面影を留めていました。

 この、コントを演じていた人たちから、後年の大スターが出ました。
 伴 淳三郎、渥美 清、長門 勇、コント55号の次郎さんと欽ちゃん、作家の井上ひさしと云う人たちです。
 
 しかし1960年代に入り、映画がテレビに押され観客を失い、ストリップが飽きられて、国際劇場が閉鎖され、浅草公園六区は急激な地盤沈下を迎えます。

 以降、映画館・劇場は次々と閉鎖されて、現在、昔日の面影は全く無りません。

 
現在は、平日は通行人もまばらで、週末は競馬がフアン押しかけ、今やここの名物となつたモツの煮込みで、コツプ酒をやりながら、儲かつた人は祝酒、損したは人憂さばらしで飲み屋が賑わつています。
 夜間は7時になると人通りも疎らになり、不夜城と詠われた嘗ての殷賑振りは、想像も出来ないという事になりました。。

 六区で健闘する浅草演芸場 新装中の大衆演劇の殿堂大勝館


 
今、浅草は東京の観光地で、観音様に参詣する人で賑わつています。
昭和初期の六区風景

    ロケットカールズ

      エイトピユーテイズ
  • 国際劇場。
  •  東京宝塚劇場に対抗して、松竹歌劇団常打ち劇場として建てられた、国際劇場は定員五千人巨大劇場で、松竹映画の封切り一本と、松竹歌劇団の踊りで満員になり、各階の前列には熱狂的フアンが頑張り、豆ランブを振りながら奇声を張り上げていたが、あの連中も孫が何人か居る年ごろになつたと思われる、遠い昔の話です。 
  •   嘗ては 踊りの SKD 歌の 宝塚 と云われたが、その SKD が末期には、一階の真ん中に一握りの観客が居て、その客席中央通路をロケットガールスが嬌声を張り上げて通過し、舞台に駆け上る彼女等を見送ると云う状態で、ついに閉鎖せざるを得なくなつて、その跡地はビユーホテルになりました。

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