|
伝法院 表門 |
伝法院の庭は、小堀遠州の設計で、良く旧形が保存されて居るので有名です。 昔は裏門から 管理人の方に断りますと、気軽に見せて頂けましたが、今では拝観でき無くなりました。 高見 順の「如何なる星の下に」で、この庭に入ると、六区や仲見世の騒音が潮ざえのように遠くから聞こえて来ると云う一節がありますが、この庭には特別な機会が無いと入れず、そうしたさ雰囲気に浸る事が、出来無くなつて仕舞いました。 |
弁天様は芸事の神様で、弁天山には 扇塚 やら 常磐津塚、色々と芸事に関連したて碑が立つていますが、中でも異色なのは、都々逸節の創始者都々逸坊扇歌と、ノンキ節の添田唖然坊の碑です。 今、ノンキ節とか都々逸とか云いましても、歌う人も聴く人も居なくなりました。 |
鐘は上野か浅草かと云う 浅草の鐘と石垣は 残っております。 |
都々逸塚 |
昔は人寄せがあつて、お酒が入ると、小父さんが小唄、端唄なぞを歌い、アンチャン達が浪花節や都々逸なぞを、町内のお師匠さんの三味線で、良い気持そうに唄うと、周りの連中は、ヨウヨウなぞと手を叩き、特に芸自慢で清元、新内なぞのサワリを語りたくてウズウスしている小父さんには、抜からずに「芸惜しみは無しだよ、そろそろ真打の出番だょ」なぞ水を向け、「よいしょ」をする礼儀正しい、おじさんや、おにいちゃんがいました。
浅草の花月劇場に、木場の仲乗りから、道楽の果てに芸人になつたと云う、チョツト、エッチな 美声で鳴らした、柳家 三亀松 と云う人が出演しており、小唄、端唄、都々逸、新内、声色から形態模写と云う、役者の身振り手振りに加えて、漫談まで聴かせて呉れる、誠に楽しい天才的芸人がいました。 |
|
||||||||||||||||
寺伝によると、創建の経緯は次のとおりです。 推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・墨田川)で、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟と主人土師中知(はじのなかとも)が、漁をして居ると網にかかった、1寸8分の黄金の仏像、勿体なやと一礼して水中に戻して、さらに漁を続けると再度網に掛る。 此のこと三度に及び、兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)今更らしく大いに驚き、河畔に草堂を作り、この聖観音(しょうかんのん)像を祀り供養した。これが浅草寺の始まりという事になつて居ます。 昔の人は欲が無かったらしく、最初に網に掛かった時、有難くも喜んでポツポに入れて仕舞えばよい物を川に戻したと云う所が何とも嬉しい所で、欲の皮がツッ張つた今時の人間に此の人たちの爪の垢でも煎じて差し上げたいですが、なにしろ1380年前の話なので、残念ですが差し上げる事が出来ません。 観音像は、高さ一寸八分(約5.5センチ)の黄金の像であると言われていますが、未だにこの像を拝見した人は居ないと云うことです。 その後、大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺をさらに整備したと云う事になつていますが、考古学的には、この時期関東一帯は弥生の末期だつたと云いますから、寺伝はーーーなぞと怪しんではいけません。 宗教には奇跡はつき物であります。 平安時代初期の天安元年(857年)(天長5年−828年とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったと云います。 これらのことから、浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称しております。 雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの云い伝えがあり、この頃に寺観が整ったとされています。 以上は 江戸名所図会 の解説に記されている事の引用ですが、浅草寺が文献に現われるのは鎌倉時代の『吾妻鏡』が初見だそうで、近世には徳川家の祈願寺に定められたこともあり、関東でも有数の観音霊場として多くの参詣者を集めた、と云うことになつておりまして、今日も多くの参詣人で賑わっております。 浅草寺は関東大震災の時、全く損傷を受けなかつたそうで、流石は観音様だと、大変有難がられたそうですが、天変地異にはびくともしなかつたこの寺も、昭和20年当時の最新鋭爆撃機、B-29 のばら撒く焼夷弾には御利益を発揮出来ず、3月10日の大空襲で、二天門、三社宮を残して全焼して仕舞いました。 誠に残念な話であります。 |
檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟と主人土師中知(はじのなかとも)を祭ったお宮が三社宮で、土師中知の後裔の方が、現在でもご本尊の御守をされて居ると云うから驚きであります。 |
三社様 | 三社宮 社殿 国の重要文化財 |
初代 中村吉右衛門の句碑 | 初代 猿翁 の句碑 |
三社祭りは有名なので、此処では省略します。 |
被官稲荷は安政2年(1854)、新門辰五郎が伏見稲荷を分祀した社で、社伝には辰五郎が妻のお福の病気平癒を伏見稲荷に祈願した所、願いが叶つたので、そのお礼に浅草寺境内に伏見稲荷を勧進したと云う話です。 被官とは出世すると云う意味があります。 新門辰五郎は講談、浪花節、幕末を主題にした小説にしばしば登場する火消しの親方となつていますが、上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子で、輪王寺宮舜仁親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便のいい新門を造った時、その門番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれ、以降、浅草寺の掃除人足の仕切りを引受て、更に町火消し十番組としても、多彩な活躍をしたと云う人です。 特に有名なのは、十五代様が大阪城から撤退したとき、権現様以来、将軍様の御本陣に置かれた金の御幣を置き忘れ、それに気づいた新門辰五郎が、金の御幣を担いで江戸まで引き上げて来たと云う話と、勝海舟が薩摩の西郷吉之助と三田の薩摩屋敷で、江戸城開城に関する話し合いをした時、徳川慶喜の助命、徳川宗家の存続と云う条件を出し、これが入れられない時には、新門組を初め江戸火消しを総動員して、市民を避難させ、同時に江戸に火を掛け、駐在している官軍を一挙に殲滅する作戦を立て居たと云う話で、新門辰五郎は、其れ程の大事を託される人でありました。 幸にも事は平和理に進められ、江戸の街は無傷で残りました。 このお稲荷様の鳥居には「安政二年九月建之 新門辰五郎」と刻まれています。 |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
浅草寺で夏に ほうづき市 が立ちます。この日にお参りすると四万六千日参詣したのと同じ功徳をうけると云うので、大変に混みますが、夏御召なぞを御召の方にお目に掛かれ、眼福を得ました。 この日には、雷避けのお札も出ます。 今時、雷避けなぞと云いますが、変電所、発電所なぞ電力関係の会社の方が、このお札を受けられるそうです。 年末には 羽子板市 歳の市 があります。 境内では羽子板市が、本堂裏の奥山では、お正月の松飾やら大神宮様なぞの市が立つて、今年も終わりかという気分にしてくれます。 浅草の観音様と仲見世は、昔と変わらぬに賑わいです。 |
浅草は嘗て東京一の盛り場でありました。 多くの流行がここを発信源として、広がったと聞いています。 1873年(明治6年)の太政官布告により、浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、1884年(明治17年)一区から七区までに区画されて、この時、浅草寺裏の通称浅草田圃の一部を掘って瓢箪池を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成、これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し、歓楽街を形成したと云う歴史があります。 浅草六区の瓢箪池側には、柳が植えられて露天が並び、夏はアイスクリーン、カキ氷、ラムネの類、冬は甘酒に焼き芋の類、お祭りの露天をイメージして貰えば、大体間違いは有りません。 ロック変遷史の詳細に興味をお持ちの方は、「どぜうの飯田」の前にある、「浅草文庫」で調べて頂くとして、ロックの隆盛に貢献した、喜劇人、活動弁士、捕り者小説の元祖岡本綺堂の半七塚なぞが、観音様本堂の横手、奥山通りの入り口にありますますので、往時を偲ぶよすがにでも、見物して頂ければと思います。 |
喜劇人の碑 | 岡本綺堂 半七塚 |
|