佃島と月島は都心に有って、奇跡的に戦災を受けなかつた。 今も昭和初期の家並みを残しており、それを慕う人々が行き交つています。 隣接地に高層ビルが林立し、それに囲まれた古い街です。 |
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表通りの二階家 | 佃煮の天安 |
元々の地名は佃嶋(つくだしま)で、現在の佃一丁目に当たる。1590年(天正一八年)八月一日、徳川家康が関東下降の際、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が家康公を慕つて江戸に移って来ました。 権現様大いに喜ばれ、よく来たよく来たと歓迎し、1645年(正保二年)に現在の地に百間四方の土地を埋め立て築島し、佃島と称し永住させ、江戸に魚類を供給させることになりました。 家康公が天下を取り、江戸幕府が開かれると、天下漁師と称して、日本全国何処に網を入れても良いと云う、お墨付きを頂戴すると云う、破格の扱いを受けました。 だから佃の漁師の誇りは高かつたのです。 佃の人達は義理固く、徳川様にはご恩が有ると、昭和に入り戦後に至るまで、徳川宗家に白魚を献上していたと聞きました。 この頃には、大川に白魚なぞは居ませんから、然るべき産地から特上品を仕入れて、献上したのだと云います。 古い地図を見ると佃島は「田」の字の形で、現在の地図を見ても、佃島はそのような形状を残しておりますが、家は建て変わりましても、道筋や路次は昔の儘で残り、何とも懐かしい限りなのです。 表通りから横丁に入り、横丁から三尺露地に入ると、昔ながらの住まいが見られます。 東京の中心部で、家屋の密集した佃島と月島一帯は、奇跡的に昭和二十年三月十日の東京大空襲の被害を受けませんでしたから、昭和初期のがっしりした、木造家屋が残されています。 すぐ隣の石川島播磨造船の跡地は、超高層マンションが林立し、佃小橋から石川島を望む光景が、名所になつているようです。 ここ十五年ばかりの間に、雨後の竹の子の様に、工場跡地や埋立地に超高層ビルが林立して、新しい街が出来て行きますが、佃の一角だけは東京の下町の姿を其の侭のこしていて、われわれの望郷の念を誘うのです。
佃島には子供が沢山居て、活気があります。 ここに来ると 俺は子供の頃の事を思いだすんだょ と云う人は大勢おります。 昔の東京の町々は、佃とよく似た姿形をしていましたが、ここは東京のまん真ん中で、原つばがありませんで、そこだけがちょつと違います。
現在でも表通りから横丁に入ると、住宅が密集しており、嘗ての姿を留めております。 昭和三十年代の街並みを残し、町ぐるみでこの旧景を保存するし、これにより町の発展を図つて行くと云う意図が成功し、沢山の若い人が此処を訪れております。
佃と月島は奇跡的に戦災を免れた下町で、当然、時代と共に様変わりはしていますが、それでも往時の面影が、そこはかと無く残つており、我々には懐かしい場所です。 佃は静かに静まりかえり、月島は「もんじゅ焼き」なる不思議な食べ物を名物にして、若い人達にも人気があるようです。 老生は出来ることならこの町が、此のままの姿でもう暫く残つて呉れればよいがと、思っておりますが、地下鉄の駅が出来、橋を渡れば東京の中心部です。 今、此処に懐かしくも古い昭和が残っているのは、この町に住む人達の心意気の賜物で、次の世代の人々にこの心意気が受け継がれて行くとは思えないし、それを望むのは無理な話でありましょう。 |