深川江戸資料館入口
深川佐賀町長屋の暮らし
この店は佐賀町切っての大店で
干しか(鰯を干した肥料)問屋

 江戸の庶民はどんな日々を過ごしていたか、それを偲ぶ事が出来る施設が、江東区深川に有る「深川江戸資料館」です。

インフエルエンザはお染風邪と呼ばれ、久松が居なければ来無いだろうと云う洒落のような、おまじないです。
 江戸の昔、インフエルエンザ、腸チブス、コレラ、疱瘡、肺結核、が死病でした。
 俗に云う「川向こう」深川、本所は水道が無く、井戸水は洗濯やその他の洗物に使い、飲料水は水売りから買って使っていました。
 この水は墨田川の上流の湧き水で、一斗、八文とか十文とかだつたと云います。
 2009年の価格で、200円前後であつたと聴いています。
 その頃、フランスの花のパリでは、セーヌ川の水を洗濯に使い、汚物を流し、その水を飲料水として、利用していました。
(高貴なお方がセーヌの水で、腸チブスになり、死んでおります)
長屋木戸 住人の表札が出ております。 町木戸
漁師の住まい 干しか問屋の表
漁師の住まい  台所 横丁の八百屋
長唄の師匠の住まい 八百屋の帳場
 ここに展示されている長屋は、その昔、深川佐賀町中の橋付近に有つた、長屋を当時の図面に従い、当時の工法で再現したと云う事で、工事の状況は、詳細にビデオに収録されており、館内で観ることが出来ます。

 長屋の暮らし
  商人でも 店 を構えて居れば、道筋に出ましたし、親方とか棟梁、頭なぞと云う、クラスの人々は、横町の二階建てに住まい、若い者を何人か抱えていましたから、こうした長屋の住人は、手間取り職人や行商人で、出職の場合は、鳶、大工、左官、諸人足で、雨が降れば仕事を休みました。 
 行商人は俗に云うボテ振りで、魚介類から季節の野菜物、佃煮や煮豆の類を商つていました。
 通い職人は親方の家の仕事場に通い、様々な細工物を作つて、賃金を貰う人たちは、照り降り無しで仕事がありました。
 
 何れも日銭取りの江戸の庶民は、こうした長屋に住んで居ました。
 
 こうした人達は、月に二十五日から二十三日働けたとして、一日の稼ぎは四百文から、五百文程だつた様です。
 仮に五百文の日当として計算してみると、二十五日計算で、一万二千五百文、表示貨幣で計算すると、二両一朱と百二十五文になり、この程度に稼げれば、まず親子三人程度なら、楽に暮らして行けた様です。
 
 家賃は月に 二朱 銭で七百五十文 程度でありましたから、大体二日程度の稼ぎで払え、亭主は晩酌二合で、三日に一度は刺身が食えたと云う事ですから、生活費に占める居住費負担は、現在より遥かに軽かつたと思われます。
 その代り建物の構造は甚だお粗末で、屋根は板葺きで天井裏に板はありませんで、家を区切る壁も薄く隣の物音がはっきりと聞こえたと思います。
 
 家主もどうせ人に貸すのだから、出来るだけ安上がりに作りますし、借り手の方も万一火事に合っても、手回りの衣類と夜具、鍋釜を背負って逃げれば、家は家主の物ですから、別に損害は無く、適当な長屋を改めて見つけ越せば良いだけだつたのです。
 
 ヨーロッパの都市の庶民にとつて、家とは冬の寒気を凌ぐ為の穴倉で、薄暗く風通しの悪い石作りの重層建築でありました。
 
 我が国の庶民の住まいは、夏の暑さと雨露を凌ぐ事を目的としていました。
 
 冬の寒さは、厚着をして火鉢を抱え、行火や炬燵なぞで凌げますが、夏の暑さは、ひたすらに耐える以外に凌ぐ方法は無く、仕事から帰ると急いで湯屋や行水で汗を流し、夕飯を済ますと路地に出て、家の中は盛大な蚊やりをして、蚊を追い出すと蚊帳を吊り、その中に潜り込んで団扇を使いながら眠りに就く訳ですが、夏の夜は寝苦しく、しかも、短いのでトロトロとまどろむとすぐに朝になります。
 
 この長屋の建て方は、表から裏に風が吹きぬける構造になつて居ます。
 風が吹き吹けないと、江戸の夏は暑くて凌ぎきれず、お江戸名物の夕立が将に救いの雨で、夕立が通り過ぎると家中がスーッと涼しくなり、住人達は生気を取り戻しました。

 この長屋は九尺二間半で、六畳一間に三尺巾で一間半の空間があり、そこが出入口と流し台にヘツッイが置かれて、その昔は一家族の構成が三人から四人程度で、暮らすには適当と思われる広さでした。
 
 しかし、この空間にゴタゴタと物は置けませんで、当座必要のないものは、質屋に預けて置き、必要になつたら受け出すと云う事にしていた様です。
 
 昔の時刻は、不定時法ですから、夏至の頃は昼間が長く、朝の五時少し前が明け六ッで、午後七時少し過ぎ頃が、暮れ六ッになります。
 昼の時間が、定時法で14時間強になりますので、夏の夜は短く寝不足になり、出職の人は仕事場で昼寝をする事になっており、仕事のハカが行かないかつた様です。
 冬は昼時間が短いので、仕事の能率が上がらず、お得意もこの時期は仕事を出すのを控えるので、二ッ八月は、霜枯れ、夏枯れ、と云いまして、出職の仕事が減つた様です。
 梅雨期は出職にとつて辛い季節でしたが、諸払いは大方が付けが利くので、身体さえ壊さなければ、特に不安無く日々を過ごせたようです。
 
 定時法と不定時法の時刻の読み方を、概略記載しておきます。
暁 9つ 子の刻 四季を通じて、現在の0時と変わらない。
暁 8つ 丑の刻 春分秋分の日 現在の2時                
暁 7つ 寅の刻 春分秋分の日 現在の4時   
明 6つ 卯の刻 春分秋分の日 午前6時、 夏至 午前5時分頃、冬至7時頃になります。
朝 5つ 辰の刻 春分秋分の日 現在の8時
朝 4つ 巳の刻 春分秋分の日 現在の10時
昼 9つ 午の刻 四季を通じて、現在の正午と変わらない。
昼 8つ 未の刻 春分秋分の日 現在の午後2時
昼 7つ 申の刻 春分秋分の日 現在の午後4時
暮 6つ 酉の刻 春分秋分の日 午後6時、夏至 午後7時頃、 冬至 5時頃になります。
夜 5つ 戌の刻 春分秋分の日 現在の午後8時
夜 4つ 亥の刻 春分秋分の日 現在の午後10時
   
 時刻は 一日を夜と昼に別けて、9つから始まり4つで終わる呼び方をしました。
 夏至の昼時間は 概略14時間  冬至の昼時間は 概略10時間 夜時間はこの逆になります。
 長屋住まいの大工、左官、植木屋、石工、土工、その他の通い職人や、ぼてふり商人、八百屋の担ぎ売り、なぞの小資本で出来る小売人なぞですが、この人達が親方や問屋の信用を得て、若い者の二人か三人抱えたり、丁稚の二人も使つたりして、この道で出世をし独立しますと、棟梁とか親方とか旦那と云うことになり、横丁に面した間口二間、奥行き三軒の二階やに越し、住まいや店を持って目出度く出世と云う事になりますが、出世の道を辿るのは中々に厳しかったと思います。 
 質屋の話 質屋は庶民の金融機関であり、貸し倉庫でもありました。
 居住空間が狭いので、ゴタゴタと家具やら荷物が置けないので、冬が終わると冬物の綿入れや布団なぞを質に入れ、春物を質から出して、夏になると春の物を質に入れ、蚊帳や夏物を受け出す、と云う具合であつたようです。
 勿論、咄嗟に必要なお金を借りる金融機関でもありました。
 
 火事と喧嘩は江戸の華、江戸の名物伊勢や稲荷に犬の糞、いずれも有難く無いものが江戸の華で有つたり、名物だつたりで、一生の裡に火事に二回や三回遭うのが当たり前で、火災保険なぞは有りませんから、焼けだされたらそれっきり、質屋の蔵に入れておけば、かなり大きな火事に見舞われても、焼け残ると云う利点がありましたので、質屋の倉が利用されたようです。
 質屋の利息は月に九分取られましたが、これは倉敷料だと思えば我慢出来たと思います。
 
 質草は主として着類で、今と違い衣料品が高かつたし、大切だつたのです。
 今でも昔通りの作り方をすれば、結城紬一疋は百万円近くする筈で、太物でも三十万前後ですから、今日でも我々庶民には、聊か値が張ります。
 現在では、糸取りから織りまで、機械でやりますから、衣類は昔に比べると、大変に安くなつております。
 
 江戸期は全て手織りですから、衣類は全般的に高価でありましたから、大切に扱われました。
 
 庶民は大体古着屋で間に合わせ、親類縁者が亡くなると形見分けと云うのがあつて「泣きながら品定めをする形見分け」と云う川柳がありますが、衣類は貴重だつたのです。
 
 式亭三馬の浮世床で、友達に衣類を貸して、質に入れられた男が一々の質草の値を云つて、悔しがる所があり、女房と自分の衣類一通りで、五両余りと算盤しますが、この金額はざっと見積もって今の金額で百万程度だと思います。

 空巣が狙うのは大体が衣類で、この貴重な財産を盗難から守る為に質屋の蔵に入れて、安心して居た訳ですが、ちょつと予算が狂うと、お蔵から出せなくかつて、難渋する事も有ったようです。


 町内犬の話 
 ここで昔の犬のお話を少しーーーー。
 今の犬は多くが猫ほどの大きさで、洋服を着せられ、リボンを結ばれて、予防注射が色々あり、餌も乾し上げた納豆の様なもので、あまり旨くもなさそうな物を食わされ、朝夕散歩に出るくらいで、健康管理と食事制限なぞされて、可哀そうでありますが、江戸期の犬は大方が町内犬で、町内のあちらこちらで人間の食べ残しを頂き、町内で町木戸の脇や、露地の入り口、店やの軒下とか、お稲荷様の縁の下なぞに蓆なぞを敷いてやり、犬の住居を提供して居ました。
 この犬達は大体昼間は、餌を貰いに歩いたり、じゃれ合ったりしたりして過ごして、夜になつて見慣れない奴が、ウロウロとやつて来ますと、猛然と吠え掛かりまして、怪しい奴を追い払うのであります。
 
 江戸期の火事は、多くが火事場泥棒を目的にした放火であつたそうで、町内犬はこうした怪しい人間を発見し追い払う事で、町内から受けている日頃の恩に報いて居たようです。
 昔の犬は町内から受けた恩を夜警を努めて返した訳で、実に感心なものでありました。

          船宿の事
 
船宿 その台所 大川の賑わい
 
 大川の川筋には船宿がありました。
 江戸の下町は掘割が縦横に通じており、物流は陸を車で行くよりも、水路を利用した方が経済的でした。
 
 チョキ舟は江戸の中心部から、吉原やら向島、川崎大師辺りまで、お客を運びました。
 駕籠は揺れてまして、乗りなれている人は駕籠の中で、揺れに合わせて調子を取ったそうですが、乗り方に上手、下手が有ったようで、歩くよりは楽にしても、決して楽な乗り物では無かったようです。
 
 江戸の下町は水路が発達しており、物流の主流は船でありました。
 又、主な盛り場には、例外無く船着場がありましたから、四、五人程度で利用すると、駕籠賃と同じ位になつたのだと思います。、
 お客が仲間と待ち合わせ、帰りの疲れ休めには、船宿の二階で一杯やると云うような場合が多いので、船宿は一通りの料理が出せる設備を備えてあり、その頃は大川を一寸下った芝浜で、活き魚が手に入るので下手な料理屋顔負けの旨い物が出せた様です。

 
お金の話
 昔の参貨制度は金貨が表示貨幣で、銀は表示貨幣と軽量貨幣になつており、銅貨は表示貨幣でした。

 長屋の住人が、親方から受け取るのは、表示貨幣としての銀貨と銅貨で、計量貨で貰うと銭に両替えしなければならず、不便だつた様です。
 「これ小判 たつた一晩 居てくれろ」 と云う川柳がありますが、庶民には小判なぞ縁が無くて、職人の手間も小判で払うなぞと云う事は、有りえなかったと思います。
 小判と云う物は嵩ばらないから、金持ちがお蔵に蓄えて置くのに都合が良いので、滅多に庶民の手には渡らないもので、親方が得意先から、小判を受けとつても、職人に払う時には小額の銀貨と銭で支払われたのです。

 何かの都合で一両小判なぞを貰うと、これを銭両替に持ち込んで、崩して貰うことになり、当然両替の手数料をとられますが、それが4パーセントとされており、一両を銭両替に持ち込んで両替しますと、一両が六千文の計算で、二百四十文の両替料を取られますから、受け取る側が迷惑であつたと思います。
 
 一両が今の貨幣価値に直すと幾らになるか、正確には解らない様ですが、一両あれば三人家族が一月何とか食べて行けた云う話ですから、感覚的に云えば、一両は現在[2008]の二十万円前後であつたのではないでしょうか―――。 
 
 歌舞伎の世話物で、悪党が直ぐに百両とか一本とか云い、強請りを掛けますが、十両から上を盗めば首が飛ぶ世の中で、長屋の住人の全財産は、精々まとめても五両か六両で、この位あれば大威張りで、一家を張って行かれたのです。
 


     
銀には計量貨と表示貨幣   金貨は表示貨幣  銭貨は表示貨幣  
 
 
   読み書き算盤の事   出職、居職を問わず、職人も、天秤棒を担いだぼてふりの商人も、細工物の職人も、読み書きが出来なければ一人前とは扱って貰えず「あの野郎は明き盲だ」と馬鹿にされ、自然に商売にも差し障りが出るのて、成人男性の識字率は高く、江戸の住人の九割は読み書きが出来て、その子供達も町内の手習師匠について、一通り習つていた様です。
 この長屋にも女師匠の住まいが設定されています。

 この師匠は昼間は近所の子供に文字を教え、夜は常磐津、清元、新内、なぞを近所の娘や若い衆に教え、乞われれば町内の集まりに出かけ、ドラ声に三味線を合わせて、生計を立てていたと思います。
 
 こうした長屋でも、貸し本屋に借りて、京伝や三馬が読まれて居たと思われますし、仕事余裕が有れば、町内の寄席に出かけたり、両国の見世物なぞを覗き、偶には大入り場で芝居の見物なぞして楽しんだと思います。
 
 江戸三座の芝居は一番安い大入り場が木戸銭が二百文程度、盛り場にある緞帳芝居ですと、五、六十文も払うと一日楽しめました。
 

  
山東京伝 鶴屋南北
 平和な徳川様の時代が、ひっくり返り、明治維新と云う大革命が、階級社会を根本から変え、旧武士階級と云う膨大な失業者を生み出し、文明開化に伴う生産手段の機械化が、長屋の住民の職業を奪い、こうした長屋が貧民窟になつてしまいました。

 明治と云う時代は戦乱に続く戦乱、戊申戦争、西南戦争と云う内戦、日清戦争に続き、日露戦争と云う外戦、戦争に次ぐ戦争で、国力の全てを戦争に費やし、辛くも戦勝国となり、世界の一等国の仲間入りを果たし明治は終わります。
 
 この間、貧冨の格差が拡大し、かつての長屋が貧民窟となります。
 この惨状は横田達之助の 「日本の下層社会の研究」 に詳しいですが、この本が切っ掛けとなつて、日本に社会主義活動が勃興しました。
 
 大正と云う時代は、束の間の平和を謳歌した時代だつた、と聞いています。
第一次世界大戦に参加して、殆ど一兵も損ずる事無く、南洋群島を領有し、国内は大戦景気で潤いまして、待合で百円札に火を付けて靴を探す成金の話が出たり、品川の遊郭に居続けして、工場に通う旋盤工の話なぞあつて、大変結構な時代であつたようです。

  大正の世まで遺つていた、江戸の面影は、大正十二年九月十二日の関東大震災で、綺麗さっぱりと焼失し、再建された東京は大東亜戦争の末期、昭和二十年三月十日から五月二十五日に至る空爆で、これまた完全に消失し、今、昭和の姿として懐かしまれて居るのは、昭和三十年ころ時の首相池田勇人が、最早戦後では無いと宣言した当時の姿であります。

 決定的に東京の町の環形を変えたのは、東京オリンピック開催の為の区画整理と道路の整備であり、爆発的に普及したテレビが、東京の庶民の間に僅かに残つていた江戸の訛りを完全に駆逐してしまいました。
 テレビは更に地方に残つていた方言と訛りを、ほぼ駆逐しました。
 
 現在はテレビで漫才師が新しい言葉を流行させ、その可笑しな言葉遣いが暫く続くと、それが陳腐化して、また新しい可笑しな言葉が誕生し、我々老耄の徒は新造語を早口で連続的に使われると、訳が解らなくなり、テレビを観たくなくなります。
 
 建物は本来、四角い箱状の物と思っていましたら、竹の子の様な丸くてノッポなビルが出来て、嘗ては地上を走っていた電車が、地面に潜り込み、墨田川を上り下りしている川船に、翼を付けたような飛行機が、ブンブンと飛び交い、夏の暑さも冬の寒さも感ぜず、男はせっせと働き、その報酬は全て女房の管理する通帳に振り込まれ、亭主は月々の決まった小遣いで遣り繰り、偶には付き合いで一杯やれば、その穴埋めに1000円ランチを500円のらーめんに替え、奮闘努力をし、女房は友を語らい、500円のコーヒーに3000円のランチなぞ召し上がり、話題が尽きれば亭主の悪口なぞを言い合い、他にも色々とお楽しみがあります様で、その逐一を縷々として、言挙げするのは面倒なので、ここで打ち切ります。
 
 ともかく世の中が様変わりした、と云う次第であります。
 
 

 
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