寛永寺五重塔
徳川様の寺
西郷さんの銅像
自分が攻め来た黒門口を睨んでいます。

 東京の寺の代表的な寺は、寛永寺、増上寺、辺りで徳川様に所縁の深い寺ですが、何れも旧形を失って寂れています。
 これは、薩摩、長州の藩閥政府に不景気にされて、震災に会い、空襲で焼かれ、増上寺なぞは江戸名所図会に昔の面影を偲ぶばかりです。
 寛永寺も戊辰戦争で焼かれ、壮麗な伽藍は偲ぶ由も無いですが、清水舞台、東照宮、五重塔は残っており、僅かに往時を偲ぶ事が出来ます。

 

  江戸は後進都市でした。
  
 権現様の入る前は、人口二百人あまりの寒村で、住民はボロ布子に縄の帯、髪は藁ずとで結ぶと云うひどい姿で、新領主を迎えました。
 貧乏慣れしている三河武士が、これにはたまげたそうです。
 当時の先進都市である、大阪、京都、あたりでこんな姿をしていれば、てっきり物貰いであつて、こうした細民が荒地に掘立小屋を建て、雨露を凌いでいる、広漠たる草原を開拓して、二百万石の城下町を作り出す事は、並大抵の仕事ではないと、権現様は覚悟を決めた事と思います。

 日本の政治家で一番偉く、適確に将来を見通す能力を備えて居たのは、徳川家康、つまり権現様で、江戸と云う広漠たる草原に立ち、ここに大都会を作りだす構想を巡らしながら、遥かに富士を望み見たであろうと想像します。
 
 余談でありますが、上方の方は太閤様を有難がりますが、関東の人間は権現様を崇め奉ります。

 大阪に版元が有ったと云う、立川文庫というジャリ向けの講談本、俗称豆本では、勿体無くも権現様は狸オヤジの悪玉で、真田十勇士なぞに追い回され、さんざんな目に合わされる事になつていますが、世界的な視野に立つて見ても、権現様程の偉人は見当たらないのであります。
 
 兎も角、260年間戦争が全く無かった国は、我が日本国だけで、世界中のどの国も権力争奪の為の戦いや植民地獲得の戦争がありました。

 徳川様の政府が崩壊して、薩長政府に変わった途端、日本は矢鱈に戦争を始める様になりました。
 その結果、戦争により東京の有名な神社仏閣は、庶民の住居と一緒に灰燼と化した訳で、権現様と何らかの関わり伝えた歴史を伝え持つた、神社仏閣は消えてなくなりました。
 
 江戸の寺社は将軍様と関わりを持つ以前は、由緒が明らかでない事が多く、天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府以降の履歴になると、俄かに詳細な記録が出てまます。 ささやかな草深い社や寺が、権現様の御目にとまり、そのお陰で世に出たものが殆どであろうと思われます。

 江戸の寺院で、最も大きかつたのは、お城の鬼門にあつた上野の寛永寺、裏鬼門にある芝の増上寺であり、共に徳川家の菩提所でありました。
 
 増上寺は草深い源誉存応上人の草庵が、権現様の目に留りその庇護で、江戸城鎮護の寺となり、菩提寺となり、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、徳川家康によって、現在地の芝へ移されました。

 先に触れました通り、東京の寺は徳川様と何がなしの所縁があつて、薩長藩閥政府に目の敵にされたから、京都の古寺の様に大事にされませんでした。
 
 もし薩長に焼かれなければ、寛永寺の壮大な堂宇が、国宝となつて残つた筈で、増上寺も空襲で焼かれなければ、荘厳な姿を留めていた筈で、此れが失われた事は誠に残念であります。

   鐘は上野か浅草か、の上野の鐘は健在で、今でも正午には
荘厳な音を響かせます。
 戊申戦争の戦火を免れた、清水堂、東照宮は上野で必見の場所てす。
 穴のお稲荷様から、清水堂、東照宮を一巡して、両大師、寛永寺根本中堂まで歩くと、寺町まですぐです。

 
上野寛永寺周辺
上野の鐘


      彰義隊奮戦図
 
天野八郎が率いる彰義隊は寛永寺に立て籠もり、その数およそ三千人、慶応四年七月十五日、薩長軍と会戦、たつた一日の戦闘で敗走、寛永寺の堂宇は殆ど焼失、これが戊申戦争の始まりとなります。

       彰義隊墓
 
この戦いの戦死者、三百人あまりがこの墓に葬られています。
 






江戸名所百景清水の舞台


清水の舞台

 清水の舞台から、不忍ばずの池ほ見下ろす絶景は、今は桜に遮られて見る事が出来ませんが、それは江戸名所百景で忍んで頂くとして、この舞台と、五重塔、東照宮の灯籠は見事に残っております。
 誠に有り難くも嬉しい事に、東照宮の境内は参観費無料、本殿拝観も僅かに二百円であります。
 京都の観光寺の坊さんに、ここを拝んで貰いたいと思っている次第です。
清水の舞台を仰ぐ

穴のお稲荷様と五条天神入り口 天神様
花園稲荷
穴のお稲荷様
上野東照宮東照宮境内の石の鳥居と灯篭群は、見事に残りました。
 桜の頃のこの境内の観景は素晴らしいです。
戦前、此処と根津権現で、時代劇のロケがありました。
 戦後、山田洋次の 家族 でも、ここが出てきます。
 そう云う事を売り物にしないところが、上野東照宮の値打ちであります。
東照宮の灯篭 東照宮

 社殿正面             

  社殿回廊 
云う
   寛永寺根本中堂
    寛永寺根本中堂

 寛永寺墓地の外れに寛永寺、根本中堂があります。
 元、川越の喜多院にあつた物をこの地に移した
と云う話ですが、境内にはこの寺の歴史を物語る遺跡が沢山あります。
 

 ここに「彰義隊奮戦の図」がありますが、彰義隊が上野の山に拠り、奮戦なぞしなければ、上野の山が公園にならず、大寺院がそのまま残り、京都の観光寺なぞは足元にも寄り付けない、偉容を誇れたかも知れません。
 残念な事であります。
 この門前に浄名院があり、左折すると谷中の寺町になります。。

浄名院


 浄名院と云うお寺には、八万四千体のお地蔵様があります。
 山門を入ると正面に地蔵尊の立像があり、境内にびつしりとお地蔵様が並んでいます。
 旧歴の八月十五日この寺で へちま供養 があり、この日にお参りすると、せき、ぜんそくに効験が有ると云うので賑わいます。

 



八万四千体地蔵



並んだ地蔵像
 ここのお地蔵様は、水子供養の為に建てられものと思いますが、八万4千体と云う数を正確に数えた訳では有りませんけれど、日の目を見ずに亡くなった胎児の菩提を葬うばかりでなく、幼児の菩提も葬つたもので有ろうと思われます。
 旧幕時代、日本全国で米の収穫は4000万石程度で、人口は約4000万人、この人口を維持するのが、精一杯の国力だつたのです。


増上寺

 増上寺は戦時中、三度に亘る戦災で、建造物の殆どを焼失しました。
 今や表門に梵鐘が残るのみで有り、東照宮参道や境内に林立していた、石灯籠なぞは散逸してしまつたと云う事です。
 その行き先も定かでなく、行方を求めている研究者も居ると聞いています。

 
: 現在、増上寺には昔を忍ぶ建造物は殆ど無いに等しく、その昔は今の芝公園の全域、東京タワーがら、プリンスホテル辺りまで、全てこの寺の境内であつたと云いますから、大変広大な規模であつたと云う事になります。


 上図 門前より山門付近
   下図 本堂付近
 江戸名所図会 増上寺
 増上寺の全容は江戸名所図会で忍ぶより仕方が無いですが、。
 今、境内に残されている、石碑類は殆ど戦後の物です。




      五重塔
  増上寺に付いては、江戸名所図会で往時を偲ぶ他は無いので、その記事の大要を拾って見ますと「数百の学寮は、畳々として軒を連ね、子院は三十余宇甍を連ね、三千余の大衆此処に集まる、と云う具合で、偶数代の将軍様の墓所でありましたから、想像を絶する大寺院でありました。
 これが空襲で焼けずに残っていたらと、つくづく惜しまれるのであります。  



 
 芝、上野、浅草の鐘を江戸
三大名鐘と云いました

          山門

  
西向観世音の水子地蔵む

 本来は南面している観世様が、何故か西を向き、その境内に数万個かの可愛いお顔お地蔵様が並んでいますが、これも水子地蔵だと云われていますが、ここのお地蔵様はあどけなく可愛い顔をしています。
 何れにしても地蔵様は、子育ての仏さまですから、可愛くてあどけない方が、良いのではないかと思っております。

東京タワー

 ここは俗世界の東京名所です。
 元、此処は増上寺の境内でありました。
 
 展望台に上ると、料金は各階ごとに別料金で、催し物はこれ又全て別料金で、これを昔は仲銭と云いました。
 チョツト昔の見世物の様で、いささか根性がさもしいと思いますが、観光地と云う所は何だ彼だと、追い銭をとるのが普通だから仕方が無いかとも思います。
 ここの食堂のお粗末な事は、バスターミナルの食堂以下で、値段は相場で取っていましたから、東京タワーにお出かけの切は、お弁当持参がよろしいかと存知ます。
 
 ここの展望台から眺めた東京の空は、一時に比べると随分と綺麗になつた様です。
 こうした景色が眺められるのが、唯一、ここの取り柄であります。
 
 八十五年前、浅草に凌雲閣、十二階と云うのがありましたが、それの現代版が東京タワーだと思っております。

  
と感じ


            
 タワー展望台より1
タワー展望台より2



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