三流映画の噺         

無声映画の噺


入江 たか子 
 
森 静子   
活動写真事始日本で映画が初めて公開されたのは、明治29年(1896年)11月25日、神戸の神港倶楽部と云う所であつたそうですが、全上映時間は15分にも足らないものだつたそうです。
 高い木戸銭を取り観客を入れて、チラチラと短いフイルムを写して、「ハイおしまいーーー」と云う訳には行きません。

 そこで勿体らしく、前説と云う物を付けて、活動写真の発明者トーマス、エジソンや、オーギュスト、リュミエールの苦心談を一席ブチ挙げ、この撮影や据え付けた映写機に付いて、出来るだけ難しい言葉を遣いで、観客を煙に巻き、これから上映する短いフイルムの内容、花の巴里の大道りの実写、停車場に入ってくる列車、セーヌ川の光景なぞ、撮影の苦心談なぞも付け加えて演説をし、フイルムの初めと終を繋ぎ、エンドレスにして、適当時間お客の御台覧に供すると云う様な次第で、関西は上田布袋軒と云う弁士が、関東では駒田好洋なる弁士が、フロックコートに山高帽、或いは紋付袴で威儀を正し、大いに観衆を煙に巻いたと伝えられ、以降、前説と云うのが有って、上映する活動写真の粗筋なぞを説明するのが、一つのパターンになつそうです。
 
             
 活動写真が、爆発的な人気を得たのは、日露戦争の実写で1904年、吉沢商会と云う会社が、現地の中国大陸にカメラマンを派遣し、撮影した記録映画、今日のニュース映画で、これで活動写真の人気は爆発的に高まり、浅草に開設した活動写真館は、割れんばかりの大入りであつたと云います。
 この時に撮つた 乃木大将とステスセル将軍 の 水師営会見 は特別な大人気で、この映像は断片が残って居ると聞いています。
 
 その他、芸者の手踊りとか、盛り場の賑わいなぞが撮影され、極めて開明的な九代目団十郎が、吉沢商会を呼んで、芝居茶屋の庭に舞台を組み、「紅葉狩」を撮らせましたが、 出来上がった映画を観た、九代目団十郎と五代目菊五郎が、チカチカチャラチャラと動く自分達の姿を観て、酷く落胆して「こんな物を残す訳にはいかねぇ、直に燃やしちまえ」と一般公開を許さなかつたと聞いて居ます。
 

九代目 団十郎
  この映画に少年であつた、六代目菊五郎が山神で出ており、現在では明治の団菊を偲ぶ貴重な映像になつてるそうです。
 
 劇映画は1908年明治41年に発表された『本能寺合戦』が日本で最初の本格的な劇映画だったそうで、牧野省三が監督し、ここで尾上松之助が登場します。
 書割の前で口立て台本無し、全く歌舞伎の引き写しで、数日で1本の映画を仕上げ、雨が降ると雨の場面、雪が降ると雪の場面、寸刻も休まず松之助を撮り続け、彼を日本初の大スターにしたのであります。
  

松之助の荒木又エ衛門

 松之助は14年間の俳優生活で、千本を超える映画を撮り、英雄、豪傑、侠客、忍術遣い、なぞを演じて、少年フアンには圧倒的な人気があつたそうです。
 当時、松竹に沢村四郎五郎と云う俳優が居て、こちらはすらりとした二枚目で、お姉さん方には人気が有った様ですが、ジャリ共は圧倒的に松之助に憧れたと云う話です。
 このジャリ共が生きていれば、何れも100歳を越えた年寄りになつております。
 松之助主演の忠臣蔵は、マツダ映画に残って居て、観る事が出来ます。
 この人が「侠骨 三日月」と云う映画を遺作にして、大正と云う年号と共にこの世を去ります。
 
 松之助の初期の旧劇、つまり時代劇は歌舞伎の引き写しでありましたから、弁士が大勢出てそれぞれの役を受け持ち、役者が見得を切り六法を踏むとツケ打ちをし、竹本の出語りが入り、万事が歌舞伎の舞台の通りでした。
 やがて西洋映画の影響で、映画劇の様式で、時代劇映画も作られ、松之助はその先駆となりました。
 
 牧野省三と云う人は、日本劇映画の元祖であります。
 この人は京都で芝居小屋を経営していて、歌舞伎の主な狂言の浄瑠璃を空で暗記しており、台本なそは無しで数日で一本の映画を完成させ、旅の役者だつた尾上松之助を「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターに仕立て上げた訳ですが、その後も阪東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介なぞのスターを続々と育て、日本映画史上の大偉人でありました。
 
 松之助の映画は、意外と沢山残って居て、マツダ映画が持つております。
 
 現代劇と云えば、これは新派の引き写しで、女優は出ず女形が活躍し、活動写真が舞台の引き写しだつた頃は、複数の弁士が出てそれぞれの役を受け持ち、掛け合いで台詞を云い、鳴り物、付け打ち、竹本の出語り迄あつたそうですが、大正の中頃には、洋画と同じ様に弁士は一人になつたそうです。
 


浅草奥山にある弁士の碑
弁士の時代 老生なぞの年齢層が、無声映画を観る事の出来た、最後の年代だと思いますが、浅草辺りの一流弁士が出ている小屋にはご縁が無く、子供が五銭で入れる場末の小屋で、無名の弁士の説明で、熱心に活動を観ました。
 こうした場末の小屋でも、トリの時代物の弁士、現代劇の弁士、添え物の弁士と三人位の弁士がおりました。
 活動写真に弁士が付いて、説明すると云う発想は外国には無かつたようです。
 日本では恐らく 文楽 と云う伝統芸能があり、人形芝居の形式を、歌舞伎が取り入れて、それをまる写しにした活動写真にもこれが取り入れられて、台詞と人物の心情を説明すると云う話術が生まれ、芸として成長し、映画をより楽しいモノにしたのだ思います。
 
 弁士有っての活動写真と云う時代が、あつたのです。
 
 
浅草奥山に弁士塚があります。
 
創立発起人は弁士仲間の出世頭、嵐寛の明治天皇でしこたま儲けた、当時、新東宝の社長、大蔵 貢弁士の時代は、ラブシーンで恍惚とした彼女のクローズアップになるとアァーッ、ジョン早く何とかして頂戴」「ああ、彼の股間は張り裂けんばかり・・なぞとやるので、大変人気があつたと云う弁士であつたそうで、この人が発起人で、徳川夢声、漫談で人気のあつた、山野一郎、牧野周一、大辻司郎、常葉座の生駒雷遊なぞが賛同して建立されたそうです。
 
 ここに名を刻まれている弁士は、無声映画華やかなりし頃の一流弁士であり、浅草でこういう弁士で映画を観ると、1円50銭したそうです。
 一流弁士の給料は、彼が説明している映画の主演スターと同額と云う、大変な高給取りだつたそうで、弁士には「俺が映画を面白くしている」と云う自負があり、映画会社に対して、説明をし易い写真にしてくれと、要求すると会社は、それを受け入れると云う事があつたそうです。
 
 カット割を弁士の説明の調子に合わせると云う事は、七五三調のリズムを取り入れて、場面の長さを弁士の説明が引き立つように繋ぐ事で、画像で描き足りない所は、弁士が説明で補足して呉れますから、弁士の説明し易いテンポで、画面を繋ぐと写真が面白くなる訳で、当然興行成績にも関わってくると云う次第でした。
 
 後年、伊藤大輔監督が「日本映画に完全な無声映画はなかつたと云える」と漏らされたそうですが、日本の無声映画はエンゼンシュタインの理論と、弁士の要請を混合した形で発達した様に思われます。

 阪妻が自分の主演映画が掛かると、浅草電気館に「熊岡 天堂」を訪ね、「オレの写真を宜しく」と挨拶しに来たと云う話があります。

 こうした一流弁士が出る映画館は、入場料が一円50銭、一週間経つて二番館に落ちると、途端に入場料が50銭とか30銭に落ち訳で、渋谷の百軒店に衆樂座と云う、新興キネマの二番館は弁士の格がガッタリ落ち、従いまして入場料も大人30銭に落ちたと記憶しております。
 
 後年、日比谷映画劇場で、チャツプリンの モダンタイムスと街の灯 の二本立てを 山野一郎と牧野周一 の解説で再上映した時、通常50銭の入場料が、1円50銭になつたのを記憶しておりますが、同じ映画でも弁士によつて入場料に差が付き、それが当然の事だつたのです。


 老生が物心付いて無声映画を観たのは、昭和7年(1932年)頃からで、洋画はトーキーとなつて居り、一流の洋画専門館には既に発声装置が入り、弁士も楽士も居なくなつていました。
 
 我々の様な ジャリ が、十銭玉を握り、或いは招待券なぞを貰って通う映画館は、まだトーキー用の設備が整つていませんでした。
 
 斯うした映画館は、活動写真小屋と呼ばれ、建築時期は大正の末か昭和の始で、間口七間から八間、奥行き八間から九間、木造二階建てでありまして、正面中央に切符売り場があり、左右には一間四方位のウインドゥがあり、左側には四隅が画鋲で止めた穴で痛んだ、上映中のスチール写真が、右側には同様に痛んだ、来週上映のスチール写真が張り出され、館の両側には、この小屋が開場した時に贈られた、幟が色褪せて、二、三本立ててありました。
 
 建物の中央に切符売り場と、入口があつて此処を通称モギリと云いまして、うら若いお姉さんが、切符の半券をモギリ、千枚通しを板切れに植え付けた様なものに半券を刺し、上映中で場内が暗い時に入ると
このうら若きお姉さんが、懐中電灯を持って、手引きと称して、おじさんやおにいちゃんの手を取り、場内座席に案内して呉れるのです。
 余談になりますが、このサービスを受けたいばかりに、毎晩活動を観に出掛けるお兄さんも大勢居たそうです。

 
 さて場内の舞台の下手には、弁士のテーブルがあつて、弁士名と映画の題名を書き込んだ行灯が青く光り、オーケストラボックスが有りました。
 座席は長いお粗末な腰掛が参列に並び、舞台の上手側が男子席、中央が同伴席、下手側が婦人席であったと記憶しております。
 
 二階席は特等席と云い、コールテンの布を敷いた座敷が有り、そこに座布団を敷いて、映画を見下ろせる様になつておりました。
 その後ろに参列程の一階のより多少マシな椅子席があり、普段はお客が入らず、お正月とかお盆の他は大抵空いていると云う話でした。
 
一階の後方、一段高い所に「臨検席」と云うのがあり、怖い警察の人が無料で入り、弁士が怪しからぬ説明をしないか、不届きな観客が居ないかと、見張る場所がありました。
 

 この頃は、冷暖房なぞと云う贅沢な物は有りませんで、冬の寒さは人いきれで我慢できましたが、夏の日中は気の遠くなる様な蒸し暑さで、舞台の上手下手に立てられた氷柱や、非常口の上4台ばかりガラガラと廻つている扇風機では、凌ぎ切れない暑さに耐えて、汗まみれで見物しました。

 外が暗くなると、
木戸も非常口も開け放し、いくらか涼しくなり、映画の方も四谷怪談とか化け猫とか、観客の肝を冷やすようなものをやりまして、鈴木澄子のお岩様がグーッとアップになりますと、世にも恐ろしい声で「うらめしやァーーー」とやりますので、同伴席のおねえさんが一緒に来たおにいちゃんに「キヤー」としがみ付くような訳で、お化けの映画は夏の夜のお楽しみで、人気が有ったようです。
 
 ジャリは専ら 阪妻 嵐寛 大河内 で、弁士もここは大車輪でありまして、大いに手に汗を握らしてくれました。
 
 ここで、映画説明を試みます。
 シナリオでは画面の指定と タイトル が書き込まれていまして、弁士はこれに適当な付足しをして、説明するので有ります。
 
 シナリオ  推定 弁士の説明






  嵐 寛 の鞍馬天狗

 京橋フイルムセンターのチラシに 嵐 寛 の偉大なマンネリズム 鞍馬天狗とありますが、河部五郎、杉山昌三九、東千代之介、市川雷蔵、小堀明夫なぞもやりましたが、鞍馬天狗と云えば 嵐 寛 に限り、右門捕物帳も、浅香新八郎、千恵蔵、大友柳太郎がやりましたが、何れも様にならず、これ又 嵐 寛 に限りました。

 





 


○ 寺院の境内  
  
目明しに先導され忍びよる、
    新撰 組。

○ 本堂
  桂を中心にした浪士達、
   気配を察する桂小五郎
   灯火を吹き消す。

○境内
   新選組一斉に抜刀、
   土方歳三の合図待つ
 タイトル「行けッ・・・」

○本堂
   浪士達も一団となつて、
   抜刀、新選組に斬り込む。

○境内
  月、煌々・・・・
   その下、浪士と新撰組
   の乱闘が展開される。
  桂の利剣新選組隊士を倒す。
  
   土方の剛剣浪士を
      切り伏せる。
  
そして、両雄対峙、
  互いに剣を構え直す。

タイトル「桂、貴様の一命、
      申し受ける」
タイトル「幕府の狗走、
     時勢に目覚めよ」
 
 両者の激闘。
  新選組に倒される浪士達

  悪戦苦闘の桂、
    勝ち誇る土方。

○松並木、
  白馬に跨った鞍馬天狗が
  疾走してくる。

○苦闘する桂達

○疾駆してくる鞍馬天狗
  カットバックよろしく有って
  タイトル「死ぬなよ、桂小五郎」
 画面にダブリで・・・・
タイトル「鞍馬天狗・・・
      怒涛編・・・・
タイトル「前編の終」             
   フエード アウト 
 
 彼の目明し 隼の長次に案内された、新撰組の一団は、倒幕の密議を凝らす勤皇の志士を襲撃するのでありました。
 率いるは、新撰組副長 土方歳三 扮するは 春日 清であります。
 「行けッ・・・」 
 早くもこの気配を察した、桂 小五郎 「各々方、新選組が嗅ぎつけたようじゃ、油断召されるな」桂小五郎、扮するは市川寿三郎、かくて、勤皇の志士は決然と立つて、餓狼の如き新選組の真っ只中に切り込むので有りました。
 (ここで、長唄小鍛冶なぞの和洋合奏、大車輪で始まります)
 ああ・・・月光の下、勤皇、佐幕の壮絶なる戦いが展開されたのであります。
「桂、貴様の一命、申し受ける」 
「幕府の狗走、時勢に目覚めよ」 
 片や[北辰一刀流」の達人桂 小五郎、対するは「天然理心流」の剛剣 土方歳三、相対峙して、将に竜虎の争いてあります。

 新選組の邪剣に勤皇の志士は次々と切り倒されて、流石の桂小五郎、疲労困憊して、命脈尽きんとするその時、颯爽、白馬を駆って疾走して来るは、ご存知鞍馬天狗。
 桂、危うし・・・
 「死ぬなよ、桂 小五郎・・・・」
 勤皇の志士を救わんと、鞭も折れよと疾駆する鞍馬天狗ーーーー。
 果たして桂の運命や如何に・・・・
 
 鞍馬天狗・・・ 
  怒涛編・・・・
 前編の終わりであります。
 桂 小五郎は助かるに決まっておりますが、やはりこうなりますと、次の週も五銭持つて映画館に通はざるを得ないのであります。
 われわれ、純真なる少年が、熱心に通う映画館にも、チャンバラを颯爽とやる弁士は人気がありました。
  
 無声映画時代の傑作とされていた映画を、活弁獅子吼大会と称して、上映するのが、トーキーの初期から、戦中にかけて一時流行し、郡部の三流映画館でも、時折、無声映画の大会が有って、これが結構人気がありました。
 老生は伊藤大輔と大河内伝次郎の国定忠治三部作や、丹下左膳、雲竜乾竜の巻、月形半平太なぞは、三軒茶屋の電気館、阪妻の、千葉周作、月形半平太、燃える富士、その他、嵐寛の、銭形平次、右門捕物帳、鞍馬天狗、山を守る兄弟、なぞは、武蔵小山の帝友館、市川百々之助の河合映画時代の作品は武蔵小山の富士館、何れも場末のオシッコの臭いプンプンたる映画館で、観る事が出来ました。

映写レンズの下に取り付けられた
 横長のボックスが、トーキーボックス
  で、この部分で音を拾った。
トーキー事始 画面に合わせて音を出す活動写真の試みは、キネトフオンと称する、蓄音機と映写を同期を取って回転させる方法で、試みられました。
 大正の初め頃、当時人気の有った、竹本呂昇や綾之助なぞと云う、娘義太夫の映画とレコードを組み合わせた、発声映画が試みに作られたそうです。
 1927年、レコード盤とフイルムの回転の同期を取り、「ジャズシンガー」と云う作品が公開され、日本でも同様方式の発声映画「戻り橋」が牧野省三によつて作られました。
 この方式の発声映画は、フイルムが切れるなぞの事故が起きると、音と絵が狂いその調整が難しく、上映館主の評判は甚だ芳しくなかつたので、発声映画の普及はフイルムに音声を焼き付ける方式が完成し、その再生装置が出来上がる迄、暫く間が有りました。
 この装置が完成し、トーキーは急速に普及します。

表 阪妻 恋山彦
 裏 千恵蔵 瞼の母

 初期のトーキーは、ウーウー、ガーアガァと云うばかりで、この雑音の合間に人間の声が甲高く微かに聞こえると云う、大変な代物でした。
 昭和6年、日本映画もトーキーを作りました。
 松竹蒲田の「マダムと女房」 続いて日活の「丹下左膳」なぞですが、いずれも雑音の間にセリフらしきモノのが聞こえると云う酷いモノで、入場料を只取られた気分がしました。

  トーキーとなつて、外国映画の観客は激減します。
 映画が英語でしゃべりだし、弁士がそれを適当に翻訳して、機械音と人間の声とが競争したそうですが、これては人間に勝ち目はありません。
 観客はスピーカーの機械音に邪魔されて、弁士の説明が聞き取れず、これでは面白い筈は無いので、お客の足は遠退きます。
 
 そこで一時期スクリーンの横に短冊状の字幕専用スクリーン作り、そこに字幕を投影し、弁士が読み上げると云うような事があつたと、徳川夢声の「くらやみ二十年」と云う自伝に書かれています。

 これが又大変で、説明用の台本通りしゃべって居ると、投影字幕の順番に間違いが起き、説明と字幕が食い違うとお客は騒ぎ始め例の如く「弁士しつかりしろ、バカヤロウ」なぞと罵声が飛ぶ、弁士は慌てて「これは字幕が間違ており、説明が正しいのであります」なぞと云い訳をしますと、お客は「弁士、ツベコベ云うな、しっかり説明しろ」と怒り出し、字幕の係が慌てカー助になつて、字幕順序が解らなくなり、一時映写を中断すると、「弁士何をやつてるんだ早く写せ」という次第で、何があつても弁士が吊るしあげられる事になつたそうです。
 これではお客の来るはずがありません。
 
 洋画が観客を取り戻したのは、ゲーリー、クーパーとマレーネ、ディートリッヒ主演、ジョセフ、スタンバーク監督の「モロツコ」で、パラマウントの田村幸彦と云う人が、今の様に日本語タイトルを入れましたが、モロツコ が大ヒツトして、弁士は完全に無用と云う事になりました。

 トーキーの音質が改善され、場末の映画館の再生装置も良くなって、休憩時間にレコードの流行歌が聴かれるようになつたのは、昭和十二年からで、この頃には、我々が通う場末の映画館でも、トーキーの設備が良くなり、休憩時間には流行歌なぞが聞かれる様になりました。

 初期のトーキー撮影スナップ カメラに防音カバーが付けられ、マイクは俳優の頭の上に据えられていたそうです。
 初期のトーキーは殆どが同時録音で、カメラは防音箱の中に収められ、俳優の頭の上にマイクをぶら下げ、念入りに声のテストをやつて、本番になった様です。
 音楽の伴奏も擬音も同時に入れたそうで、アフレコでセリフと唇の動きを合わせるのは、同時録音をするより遥かに難しく、声と唇の動きが全然合わない不自然さを覚悟しなければ、アフレコが出来なかつたのです。
 フイルムに音声を焼き付けて音を出すので、フイルムは当然無声映画の倍だけ必要で、その他に録音機械と防音したスタジオ、それと上映館の全てに音声再生装置を着ける必要がありました。

 
 ポジフイルムを焼く手間も二倍、現像処理も自動現像になつて手加減出来ず、機械設備の費用、スタジオの防音処理なぞと費用が嵩み、スタープロダクションは、親会社がトーキー製作費用を見て、作品の引き取り価格を上げて呉れないので、忽ち苦境に立ち軒並みポシャリました。
 
 そこに東宝の大引抜きがあり、日活の大河内伝次郎、入江たか子、黒川弥太郎、花井蘭子、轟夕起子、新興から山田五十鈴、大都から海江田譲二、極東から羅門光三郎、なぞが東宝に移り、阪妻、嵐寛、千恵蔵は日活に、右太衛門は新興入ります。
 更に松竹から 林 長二郎が東宝に抜かれ、暴漢が長二郎を襲い顔を切ると云う騒ぎ、この辺りから各社共に全プロがトーキーになりました。

 弁士のおじさんや楽師のおじさんは、紙芝居に転業したり、チンドンヤでラッパを吹いたりと云う事になり、映画館から消え去りました。

 映画スターもトーキーとなつて、かなりの浮き沈みがありました。
 
      これより、ささやかな列伝を述べます。
 大河内伝次郎の巻
 昭和7年2月初め、この日大雪でありましたが、丹下左膳を観たい一心で自転車で、渋谷日活館に出かけました。
 ウオーンと云う音がして、ウエスタンエレクトリックのマークが映り、やがて大河内の彼の有名なる、「シェイハ、タンゲ、ナハ、シャゼン」これにはがっくりしました。
 この映画でまともにセリフを喋ったのは、山本礼三郎、沢村国太郎、山田五十鈴、後は脇役も訛りがあつたり、声がかすれたり、しかし、不思議な事に大河内のセリフが耳に慣れて、「アアー、ウウー」と云う癖が一種の持ち味のようになり、不思議におかしく無くなりました。
 
  
阪東妻三郎の巻
 昭和9年年正月、武蔵小山の帝友館と云う小屋で、新納鶴千代を観ました。 いつも阪妻を説明している、帝友館の弁士が館の入り口を掃いていましたが、この人を呼び返して、説明を付けて貰いたい程、変に甲高くて間延びして、これ又何をしやべって居るのか、判らず大いに失望しました。
 昭和十二年、日活に入り「恋山彦」を撮りました時には、おかしなセリフ廻しが、殆ど直っていました。
 後年、この台詞廻しが魅力に変わり、数々の名作を残すわけですが、この間の精進努力は様々の逸話となつて、語り継がれています。
 やや猫背になつて刀を構える、独特のチャンバラのスタイルは、颯爽として、今でも明瞭に記憶しております。
 この俳優をは百年不世出の名優であつたと云はれおりますが、今、追憶の中にある 阪妻 は正にその言葉通りの俳優でありました。


片岡千恵蔵の巻
 この人はチヤンバラをやらない事があつて、我々を大いに失望させました。トーキーは赤西蠣太で初めてみましたが、この映画には凄いチャンバラがラストにありました。
 それは原田甲斐が伊達安芸に刃傷する、映画史上、伝説となつた名場面で、墨絵の竜の衝立を切り破り、短刀を振り上げた原田甲斐の見得なぞは、子供心にも凄い迫力でした。
 後年、歌舞伎座で先代萩が出まして、松録の仁木弾正が大暴れ、それを見物したおばさんは、何で衝立を斬り破つて、見栄を切らないのと、不満そうでした。
 この人は歌舞伎は初めてで、映画の赤西蠣太を観て、刃傷の壮絶な場面を記憶していたのだと思います。

 
 市川右太衛門の巻 
 天一坊と伊賀亮が、右太衛門の声の聴き始めでした。
 右太衛門の堂々とした伊賀亮が、事破れてうろたえる天一坊に「どうしたい、若いの」と呼びかける、堂々たる貫録の伊賀亮の押し出しは、眼を見張るばかりの立派さで、時代劇大スターで、危なげ無くトーキーに乗り換えられたのはこの人ばかりで、旗本退屈男の  グハハハハーーと云う豪快な笑いが、懐かしく耳に残っています。
 この人のチヤンバラは、踊りの様で迫力が不足でしたが、「諸羽流青眼崩し」は実に立派で、六代目歌右衛門と歌舞伎座俳優祭で、競演した時、右太衛門には「殿様」歌右衛門には「大成駒」と声が掛かりました。

 
  林 長二郎の巻
 前記の天一坊で、蚊の鳴くような声の長二郎、しかもおかしな京訛り、長さんもこれで終わりと思いのほか、何とかこれを乗り切って、二年後の雪之丞変化では殆ど訛りを克服、松竹はこの映画の収益で、大船に土地を買い、愛染かつらでステージを建てたと云う話があります。
 林 長二郎が長谷川一夫に生まれ変わり、晩年まで二枚目を張り通しました。
 長谷川一夫の後に続く二枚目俳優は、まだ出ておりません。
 
 
  澤田 清 の巻
 日活の二枚目で、一時は大河内を凌ぐ人気があつた、澤田 清は、純真無垢な好青年で、この人に切なげな眼でじっと見つめられると、お若い女性はポーッとなつて、体が震えてくると云う程のいい男でしたが、トーキーになつて驚きました。
 この好い男が、風邪を引いて咽頭を痛めた様なかすれ声を出し、それを克服出来ず、消えて仕舞いました。
 
   嵐 寛寿郎の巻
 
アラカンのトーキーは、春霞八百八町と云う業平小僧物で、彼の森光子のデビユー作品でもあります。
 大体、アラカンと云う人は、無口で物わかりが良く、べらべらとおしゃへりをしない所が値打ちで、トーキーになつて、一言一言を悠々としゃべるせりふを聞くと、将に想像していたアラカンの声だつたので、フアンとしては誠に満足でした。
 むつつり右門にしても、鞍馬天狗にしても、この人以外の物は全て駄目でした。
 高田 浩吉の巻
 
トーキーになつて沈む役者が多いなかで、浮かび上がつたのはこの人で、戦後は松竹時代劇の看板を一人で背負い、歌う時代劇スターとなりました。 
  坂東好太郎の巻
 この人守田勘弥の子ですから、歌舞伎の名門、現弥十郎の父親に当たります。
 林長二郎が抜けた松竹下加茂を支えきれず、映画の退潮時、歌舞伎に戻り、専ら脇役で 大家さん とか 暫 の腹出を務めていました。
 往年の颯爽とした二枚目振りを知る人は、いささか寂しい気がしましたが、歌舞伎の舞台に帰ると、大和やァ と声が掛り、まずは家柄相応の役を務めていましたから、幸せに役者人生を過ごしたようにおもいます。


  
 
 
月形龍之助
 この役者は誠に不思議な人で、無声映画の初期から、映画の退潮期まで、重要な脇役を務め、常に存在感のある俳優でした。山本嘉一と云う人が水戸黄門を繰り返し演じましたが、この人の扮装は百姓親爺の造りでした。
 今の物々しい、キンキラな衣装に変えたのは月形で、この後、東野英治郎から、里見浩太郎まで、黄門様もよく続くものだと感心しています

 市川百々之助
 
この人は19歳でスターとなり、帝国キネマを背負って、月間2本から3本の主演作品を撮り、褌の下がりをチラつかせたチャンバラで、満都の婦女子とジャリ共を興奮させ、大変な人気でありました。
 帝キネの末期に本身を使ったチャンバラで、弟子に怪我をさせ、これが切っ掛けで人気が急落し、大都映画から、日活の添え物映画の主役を務め、やがて脇役にまわり、戦時中は実演、戦後は東映で、一言か二言のセリフのある端役を勤め、やがて人知れず消え去りました。
 老生は、この人の大フアンであつたのです。
 この人の映画をはっきり覚えているのは、大都映画に入ってからと、日活で添え物に主演していた頃の作品です。
 
 
戦前のスター達その頃の映画の一枚十銭のプロマイドを、何枚かご覧にいれます。
 昭和六年頃から十三年ころまでの物が主になつておりますが、お慰みまでに大昔の映画の残骸として、御覧頂きたいと思います。
提供者は小生の友人の姉さんで、ご存命ならば九十前後、戦争中、食糧難の折に饂飩粉をお分けして、お礼に頂戴したプロマイドです。
 映画と歌舞伎の写真で色々と取り混ぜると百枚程度が、我が家に残って居りました。
 お慰みにご覧下さい。


 黒田誠忠録  大河内と黒川弥太郎

大河内 東宝 入社第一回作品
    南国太平記 相手役 花井蘭子


 片岡千恵蔵 と 上山草人
     カメラ脇は 伊丹 万作


決闘高田の馬場 阪妻 と 大倉千枝子 

 題名不詳 好太郎と飯塚敏子

題名不詳 尾上菊太郎と深水藤子

阪妻 燃える富士

 JO 東宝京都 宮本武蔵
    黒川弥太郎 高尾光子のお通

 南国太平記 黒川弥太郎 花井蘭子

題名不詳 嵐寛 沢村国太郎 橘 公子

  好太郎の 蹴繰り音頭

題名不詳 花柳小菊 月形

題名不詳 高瀬実乗 国太郎 百々之助

 瞼の母 常葉操子 千恵蔵

 髑髏銭 月形龍之介  原 駒子

三味線侍 嵐 寛 と 橘 公子


海援隊 嵐 寛  と 月形

題名不詳 沢村国太郎 花井 蘭子

流転  森 静子 河原崎権十郎
      好太郎

題名不詳 大内 弘 光川京子 
好太郎 飯塚 敏子

題名不詳 新妻 四郎 小笠原章二郎

題名不詳   千恵蔵


題名不詳   千恵蔵 歌川絹江

流転   森 静子 
              好太郎


題名不詳   好太郎

題名不詳 伏見信子 川浪良太郎  

題名不詳 高田 浩吉  玉島愛造

北見礼子 
林 与一 のお母さん 

大倉 千代子

花井 蘭子

深水 藤子

中村 芳子 
林 与一の叔母さん

森 静子

     
       原  節子
 


桑野 通子

高峰秀子



高杉早苗 現猿之助のお母さん

 
 田中 絹代  坪内 美子 髪型は丸髷

    ターキー水之江

音羽 久米子

佐野 周二 関口 宏のお父さん 川崎 弘子

真山くみ子 と 古川登美 
        新興キネマ

橘 公子

入江 たか子

佐久間妙子

高杉早苗 川崎弘子 佐野周二

田中 絹代 岡 譲二

徳大寺 伸 槇 芙佐子
林 長二郎 写真集   林 長二郎のプロマイドを何枚かご覧に入れます。
 林 長二郎 は昭和12年に居なくなり、長谷川一夫 になります。
 長谷川一夫もこの世の人では有りませんが、正に絶世の美男子でありました。
 この人の最後の舞台は、東京宝塚劇場で「大石内蔵助」でしたが、舞台でよろめき黒子に助けられ、八百屋お七の火の見櫓では、黒子が三人掛かりで、必死の力演でした。
 その三月後、花で有るまま世を去りました。
 林 長二郎 を弁士付きで観た最若年は、只今。85歳になっており、長さんのプロマイドを胸に抱いて、嬌声を張り上げていた、お姉さん達は90歳前後になりました。
 その人達の記憶の中に、林長二郎は生きております。


雪之丞変化

題名不詳

二つ灯篭

お嬢吉三


弁天小僧




明智 光秀


敵国降伏

敵国降伏

敵国降伏

題名不詳 
  長二郎 敏夫 小林重四郎

土屋 主税
林 敏夫 中村芳子 長二郎

林 長二郎  成年 中村芳子
         林 長三郎 敏夫
 林 長二郎、長谷川一夫は、伝説の人として日本映画史に記録されて居ます。
 この人の 墓所は香華の絶えたことが無く、いまだに多くのフアンが訪れ、香華が絶えません。
 

  
 
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