入江 たか子 |
森 静子 |
日本で映画が初めて公開されたのは、明治29年(1896年)11月25日、神戸の神港倶楽部と云う所であつたそうですが、全上映時間は15分にも足らないものだつたそうです。 高い木戸銭を取り観客を入れて、チラチラと短いフイルムを写して、「ハイおしまいーーー」と云う訳には行きません。 そこで勿体らしく、前説と云う物を付けて、活動写真の発明者トーマス、エジソンや、オーギュスト、リュミエールの苦心談を一席ブチ挙げ、この撮影や据え付けた映写機に付いて、出来るだけ難しい言葉を遣いで、観客を煙に巻き、これから上映する短いフイルムの内容、花の巴里の大道りの実写、停車場に入ってくる列車、セーヌ川の光景なぞ、撮影の苦心談なぞも付け加えて演説をし、フイルムの初めと終を繋ぎ、エンドレスにして、適当時間お客の御台覧に供すると云う様な次第で、関西は上田布袋軒と云う弁士が、関東では駒田好洋なる弁士が、フロックコートに山高帽、或いは紋付袴で威儀を正し、大いに観衆を煙に巻いたと伝えられ、以降、前説と云うのが有って、上映する活動写真の粗筋なぞを説明するのが、一つのパターンになつそうです。 |
活動写真が、爆発的な人気を得たのは、日露戦争の実写で1904年、吉沢商会と云う会社が、現地の中国大陸にカメラマンを派遣し、撮影した記録映画、今日のニュース映画で、これで活動写真の人気は爆発的に高まり、浅草に開設した活動写真館は、割れんばかりの大入りであつたと云います。 この時に撮つた 乃木大将とステスセル将軍 の 水師営会見 は特別な大人気で、この映像は断片が残って居ると聞いています。 その他、芸者の手踊りとか、盛り場の賑わいなぞが撮影され、極めて開明的な九代目団十郎が、吉沢商会を呼んで、芝居茶屋の庭に舞台を組み、「紅葉狩」を撮らせましたが、 出来上がった映画を観た、九代目団十郎と五代目菊五郎が、チカチカチャラチャラと動く自分達の姿を観て、酷く落胆して「こんな物を残す訳にはいかねぇ、直に燃やしちまえ」と一般公開を許さなかつたと聞いて居ます。
牧野省三と云う人は、日本劇映画の元祖であります。 この人は京都で芝居小屋を経営していて、歌舞伎の主な狂言の浄瑠璃を空で暗記しており、台本なそは無しで数日で一本の映画を完成させ、旅の役者だつた尾上松之助を「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターに仕立て上げた訳ですが、その後も阪東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介なぞのスターを続々と育て、日本映画史上の大偉人でありました。 松之助の映画は、意外と沢山残って居て、マツダ映画が持つております。 現代劇と云えば、これは新派の引き写しで、女優は出ず女形が活躍し、活動写真が舞台の引き写しだつた頃は、複数の弁士が出てそれぞれの役を受け持ち、掛け合いで台詞を云い、鳴り物、付け打ち、竹本の出語り迄あつたそうですが、大正の中頃には、洋画と同じ様に弁士は一人になつたそうです。
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ここに名を刻まれている弁士は、無声映画華やかなりし頃の一流弁士であり、浅草でこういう弁士で映画を観ると、1円50銭したそうです。 一流弁士の給料は、彼が説明している映画の主演スターと同額と云う、大変な高給取りだつたそうで、弁士には「俺が映画を面白くしている」と云う自負があり、映画会社に対して、説明をし易い写真にしてくれと、要求すると会社は、それを受け入れると云う事があつたそうです。 カット割を弁士の説明の調子に合わせると云う事は、七五三調のリズムを取り入れて、場面の長さを弁士の説明が引き立つように繋ぐ事で、画像で描き足りない所は、弁士が説明で補足して呉れますから、弁士の説明し易いテンポで、画面を繋ぐと写真が面白くなる訳で、当然興行成績にも関わってくると云う次第でした。 後年、伊藤大輔監督が「日本映画に完全な無声映画はなかつたと云える」と漏らされたそうですが、日本の無声映画はエンゼンシュタインの理論と、弁士の要請を混合した形で発達した様に思われます。 阪妻が自分の主演映画が掛かると、浅草電気館に「熊岡 天堂」を訪ね、「オレの写真を宜しく」と挨拶しに来たと云う話があります。 こうした一流弁士が出る映画館は、入場料が一円50銭、一週間経つて二番館に落ちると、途端に入場料が50銭とか30銭に落ち訳で、渋谷の百軒店に衆樂座と云う、新興キネマの二番館は弁士の格がガッタリ落ち、従いまして入場料も大人30銭に落ちたと記憶しております。 後年、日比谷映画劇場で、チャツプリンの モダンタイムスと街の灯 の二本立てを 山野一郎と牧野周一 の解説で再上映した時、通常50銭の入場料が、1円50銭になつたのを記憶しておりますが、同じ映画でも弁士によつて入場料に差が付き、それが当然の事だつたのです。 老生が物心付いて無声映画を観たのは、昭和7年(1932年)頃からで、洋画はトーキーとなつて居り、一流の洋画専門館には既に発声装置が入り、弁士も楽士も居なくなつていました。 我々の様な ジャリ が、十銭玉を握り、或いは招待券なぞを貰って通う映画館は、まだトーキー用の設備が整つていませんでした。 斯うした映画館は、活動写真小屋と呼ばれ、建築時期は大正の末か昭和の始で、間口七間から八間、奥行き八間から九間、木造二階建てでありまして、正面中央に切符売り場があり、左右には一間四方位のウインドゥがあり、左側には四隅が画鋲で止めた穴で痛んだ、上映中のスチール写真が、右側には同様に痛んだ、来週上映のスチール写真が張り出され、館の両側には、この小屋が開場した時に贈られた、幟が色褪せて、二、三本立ててありました。 建物の中央に切符売り場と、入口があつて此処を通称モギリと云いまして、うら若いお姉さんが、切符の半券をモギリ、千枚通しを板切れに植え付けた様なものに半券を刺し、上映中で場内が暗い時に入ると、このうら若きお姉さんが、懐中電灯を持って、手引きと称して、おじさんやおにいちゃんの手を取り、場内座席に案内して呉れるのです。 余談になりますが、このサービスを受けたいばかりに、毎晩活動を観に出掛けるお兄さんも大勢居たそうです。 さて場内の舞台の下手には、弁士のテーブルがあつて、弁士名と映画の題名を書き込んだ行灯が青く光り、オーケストラボックスが有りました。 座席は長いお粗末な腰掛が参列に並び、舞台の上手側が男子席、中央が同伴席、下手側が婦人席であったと記憶しております。 二階席は特等席と云い、コールテンの布を敷いた座敷が有り、そこに座布団を敷いて、映画を見下ろせる様になつておりました。 その後ろに参列程の一階のより多少マシな椅子席があり、普段はお客が入らず、お正月とかお盆の他は大抵空いていると云う話でした。 一階の後方、一段高い所に「臨検席」と云うのがあり、怖い警察の人が無料で入り、弁士が怪しからぬ説明をしないか、不届きな観客が居ないかと、見張る場所がありました。 この頃は、冷暖房なぞと云う贅沢な物は有りませんで、冬の寒さは人いきれで我慢できましたが、夏の日中は気の遠くなる様な蒸し暑さで、舞台の上手下手に立てられた氷柱や、非常口の上4台ばかりガラガラと廻つている扇風機では、凌ぎ切れない暑さに耐えて、汗まみれで見物しました。 外が暗くなると、木戸も非常口も開け放し、いくらか涼しくなり、映画の方も四谷怪談とか化け猫とか、観客の肝を冷やすようなものをやりまして、鈴木澄子のお岩様がグーッとアップになりますと、世にも恐ろしい声で「うらめしやァーーー」とやりますので、同伴席のおねえさんが一緒に来たおにいちゃんに「キヤー」としがみ付くような訳で、お化けの映画は夏の夜のお楽しみで、人気が有ったようです。 ジャリは専ら 阪妻 嵐寛 大河内 で、弁士もここは大車輪でありまして、大いに手に汗を握らしてくれました。 |
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