木下 双葉
大都映画と三流映画の噺   
 三流映画とは、小資本の映画会社が、当時一流とされていた 松竹 日活 の5分の1程度の費用で、製作された映画の総称であります。
 戦前の映画史に残る所謂傑作或いは名作の類は、フイルムセンーターに相当な本数が残され、俳優、監督、カメラマン、当時の巨匠、名優、名キャメラマン、なぞの作品が生誕100年記念、没後50周年記念なぞと称し上映されています。
 
 しかし、多くの大衆の心を癒しました、三流娯楽映画は、殆ど上映されません。

 
琴 糸路
 こうした映画の熱心な観客は、50銭玉を耳に挟んだ半纏姿のお兄さんや、銘仙の晴れ着で鈴の付いた財布に一円札を2枚程忍ばせたお姉さん達、そして、十銭玉をガマグチに忍ばせた、ジャリ達、云うならば底辺の観客でありました。
 往時の底辺映画フアンを熱狂させてくれた、粗製乱造の映画は、フイルムセンターにも殆ど残って居らす、上映の機会を得ない事は、甚だ残念であります。
 

 斯うした映画は、戦時中に収集されて、銀と火薬に化け、消えて無なくなり、その保存なぞは、誰もが考えておらず、映画史上で名作とされていた、作品もかなり散失してしまつたと云う、戦時中に新興キネマの添え物、大都映画、極東映画、全勝キネマなぞ云う、二、三流映画は殆どが、銀とニトログリセリンに還元され、消えて無くなり、敗戦を迎えてチャンバラ映画が、進駐軍に没収された時に、すでに殆どが消滅し、戦後、進駐軍より返還された、十杷一絡げのフイルムの中にも、全く残って居なかったと思われます。
 
 名匠、巨匠、良心的映画作家と称する人達の作品は、僅かであつても映画会社の倉庫に温存されてたり、好事家が保存していたりして、大切に扱われ、こうした作品は戦後返還され、僅かに残つたので、現在、時折は観る機会が得られますが、底辺にあつた数多くの映画は、殆どが観ることが出来ません。
 ここでは、オールドフアンの脳裏にきり残って居ない、低俗映画の話をさせて頂きます。

 「御園京平」と云う篤志家が、生涯を掛けて収集された、ポスターやチラシ、プログラムなぞは「フイルムセンター」に寄贈されて、残って居るので機会が得られれば、見る事が出来ます。
 これらのポスターやチラシは、お粗末な印刷の物が多く、現在のポスターと比較すると、段違に粗悪なシロモノでありますが、こうしたポスターが、銭湯、床屋、駄菓子屋、表通りから路次に入る角々や、チョツト目立つ通りの板塀なそに貼られ、このポスターで、観客を動員していたのであります。
 
 ポスターの向かって右下に招待券が刷り込んであり、これを斜交いに切り取りました券を通称ビラ下と云い、この券は土曜、日曜、祭日、は使えませんで、金曜日映画替りの木曜日に駄菓子屋のおじいさんが、常連で上得意、日頃、店で顔を利かせいてるガキ大将に呉れました。
 映画館では「プログラム」と称して、A4 か A5 位のお粗末な色の付いた、ザラ紙に配役と粗筋と、地元のそば屋、魚屋の広告を印刷した、お粗末なビラを、只で呉れました。

 大都映画は、チヤンバラと新派大悲劇、銀紙のハゲた竹光を振るっての大チャンバラ、継子苛めの新派大悲劇、オートバイで海中に飛び込み、ビックリマークと渦巻きが出て、前編の終りとなると云う、ハヤブサ ヒデトの映画なぞであり、極東映画は羅門光三郎、雲井竜之助、綾小路弦三郎、これまたチャンバラと忍術映画、全勝には、大河内 竜、松本栄三郎と云うのが、やたらに竹光振り廻して、眼を剥くチャンバラで、これを観続けますと小学校の三、四年の頃には流石に馬鹿々々しくなります。
 
 しかしながら、過ぎ去った日の活動写真が、後期高齢者にとつて、涙の出る程に懐かしくなる事があるのであります。
 

   三流映画の雄    大都映画  
 小生が大都映画の話を聴いたのは、 この会社で監督となり、後年、教育映画社を興し、「深海の世界」で文部省推薦を受けた、外山凡平先生と、引退した最晩年の海江田譲二氏、嘗て大都映画に所属し、後年「大都会」と云う集まりを持つて、年に一度集まられた人々からの聞書きであります。
 外山先生の映画は「愛憎秘刃録」と云う、東宝京都で撮つた「海江田譲二」主演の作品が、フイルムセンターに有る筈です。


 大都映画の発足。
 
大都映画の創立者、河合徳三郎と云う人は、何と云っても大変な人物であつた様です。
 大正10年[1921年
]1月、当時の民政党を後盾として、大和民労会なる団体を結成し、その会長に納まつたと云う、右翼政治団体の指導者であり、関東地方切っての土木系博徒の顔役で、
河合組の倉庫には、一個中隊を武装出来る小銃と機関銃があつたと云う噂がありました。
 多分この噂は事実だろうと云う話で、この人が、関東大震災の復旧に当たり、土木工事でしこたま儲け、これを資金に活動写真をやることになりました。
 
 
そこで昭和2年に河合キネマを立ち上げ、当時、ヘタリ掛けてていた、マキノキネマから俳優、監督を引き抜き、巣鴨に有った国活の撮影所を本拠にして、製作を開始しました。
 
 河合徳三郎は、活動写真会社の経営についても、着実な見通しを持つて居り、活動写真は作る方にばかり力を入れても駄目だ、見せる方にも力を入れなければ商売に成らないと、極めて当然の事を云い、昭和二年にスタートした、河合キネマは翌年には上映網を確保し、確実に収益を挙げる得るネットワークを作り上げそうで、以降、昭和十六年に大映に統合されるまで、終始、黒字経営を続けて居たと云う話です。

 この会社はとにかく徹底して制作費をケチり、松竹で1本5万円程度の費用を掛けた時代に、大都は5千円程度で仕上げ、一時間の映画を作るのに、フイルムは一時間ちょっと廻る程度の量を渡され、追加は一切認めないので、予定のフイルムで仕上からない場合、自分で工面するか、次回の作品分から前借をするか、要領よく前に撮った作品のネガを適当に繋ぎ込んでごまかしたと云うことでした。 
 
 製作期間は一週間から10日で、二本の映画を仕上げるのが、全プロ体制を維持する為には絶対的な条件で、
売れている監督は月に三本、平均的にすると月間1本半を撮り上げ、上映網を維持して居たそうで、早撮りが当然であつたそうです。
 
  
 大都映画製作   実態聞き書き  大都映画の全てに 「総指揮 河合 徳三郎」 と云うトップタイトルが出るわけですが、企画会議なそと云うメンドクサイものはやりませんで、手の空いた監督を呼びつけ、「何かあるかーー」と云われます。 無いと云うと大雷が落ちてウルサイので、「有ります」と云つて置いて、大急ぎで脚本を書くか、兎も角撮影に入る事が珍しくなかつたそうです。
 
  河合社長のオメカケさんが、熱心な「講談倶楽部」「キング」「読切講談」の読者で、旦那に「アンタ、これ面白いわよ」と推奨すると、旦那はそのページをベリッと破り、早速、撮影所に電話を掛けて、空いている監督を呼び出し「お前、これをやれ」と命令される。
 これは筋書きが出来居ているだけ有難いわけであつたそうです。
  
 
 
その頃は、巣鴨の奥や染井の辺りには、手ごろな長屋門を構えた旧家が何軒かあり、その門を借り「奉行所」とか「代官所」とか「何とか藩々邸」に見立て、看板を掛けると其れらしく見せて使わせて貰い、街道なぞは旧道をそれに見立て、お寺の境内や庭も迷惑がらず、ロケさせて呉れたのですが、当てにしていたお寺に「今日は法事が有るから駄目だ」と断られ、慌てる事も有ったそうです。
 
 こうして兎に角、手の空いている役者を集め、時代劇ならば近くのお寺やお宮に出かけ、ラブシーンとか、出会いの撮影をして置き、撮影所の百坪程スペースのオープンセットで、チャンバラを撮り、撮り上げた場面を書き込み、シナリオと撮影が同時進行し、筋の繋がらない所はタイトルで筋を通し、シナリオが出来上がると、間もなく撮影も完了し、編集に入つて十日も経つと、試写が出来ると云う手際の良さであつたと聞きました。
 
 前記した、外山凡平先生の場合、月に一本映画を仕上げると、脚本料五十円、演出料五十円、月給五十円、合計百五十円になつて、仕事もキツかつたですが、収入も良く他社の新進監督より、遥かに待遇が良かったそうです。

大都映画のスター達大都映画のスター達で、何となく重きを成していたのは、阿部九州男でありました。
 戦後、大映で大河内の水戸黄門で、格さんなぞを勤めましたが、新東宝で、嵐寛、大河内、若山富三郎の脇を勤め、嵐寛の明治天皇では、伊藤博文役でこれが誠に名演技、新東宝がつぶれ東映に移り、進藤英太郎と云う名悪役の弟分と云った役を務めていました。
 白黒映画の末期、「十三人の刺客」と云う工藤栄一監督の作品では、大いに活躍しましたが、その後
レットパージで新劇で食えなくなつた俳優が、マキノ光男を尋ねて来て、頼み込むと「ヨッシャ、赤も白も無いわィ、ワシャ困っとるもんの味方ャ」と、東映で引き取るに及び、この人達が悪役を勤める様になりました。
 
 このあたりから映画育ちの悪役が、総体に霞んできました。
 阿部九州男も例外でなく、卑怯未練に逃げ廻り、とうとう斬られて苦悶の形相物凄く、ばったり倒れると言う、大敵の役が廻って来なくなりました。
 
 
万屋錦之助の宮本武蔵で、お杉婆が浪速千栄子、権オジを阿部九州男を勤め、誠に名演技でありましたが、出場は僅かでありまして、古馴染みとしては誠に残念でありました。

 
木下双葉と云う女優が、阿部九州男の奥さんで、映画でも共演しており、斯道を解しているお兄さんは、「いい女だ」と絶賛して居ました。
 この人は盲腸炎を抉らせ腹膜炎若くしで亡くなり、暫くして 
東 竜子 と云う女優がアベクスの奥さんになり、後年、東映でチョイ役を務めていました。
 
琴 糸路 と云う女優は、大都ではピカ一の存在で、河合徳三郎社長が一目置く存在だつたそうで、娘の指導を依頼したと云う話です。
 大都から大映に移つても、この人は別格の扱いで、嵐 寛寿郎の相手役なぞを勤めましたが、惜しくも肺結核で早く亡くなりました。
 
 

海江田 譲二

松山 宗三郎

近衛 十四郎

杉山 昌三九杉山


 河合社長に娘が三人居て、琴 糸路の指導を受けて、女優になりました。
 
長女の三條輝子、次女は琴路美津子、三女が大河百々代、と云う芸名で人気がありました。
 三條輝子お侠な娘役と女だてらのチャンバラで人気があつて、オヤジさんを口説いて、当時人気の出盛りの高田浩吉を大都に引き抜き、共演したいと言い出し、娘に甘いは父親の常で「何とかしろ」と云われたのが、某監督でしたが、売り出した盛りの浩吉が大都に来る筈は無いので、窮余の一策で、旧知の才人、元、結城重三郎と云う芸名で映画俳優をしていた、ムーラン、ルージュの演出家小崎政房を 
松山宗三郎 と云う芸名で、大都映画に呼びました。
 この人は、実に才気渙発で、何だ彼だとむずかつていた、三條輝子を何とか丸めて込んで、相手役を務めたそうです。
 
 
海江田譲二と云う人は、立ち姿がスッキリしていて、粋な感じでしたが、阿部九州男に比べると何となく線が細く、大都映画でのランクでは、阿部九州男に一歩譲ったようでした。
 海江田は大都映画から、今井映画に行き、松竹下加茂に移りました。
 海江田の抜けた後、杉山昌三九、本郷秀雄、なぞが入って来ました。
 阿部九州男 と云う人は、デント大都映画に居座り、何とはなしの貫禄で、芝居も上手かったそうです。
 女優では、何と云っても 琴 糸路 で、社長の河合徳三郎が、ご機嫌を取っていたと云う人で、大都映画では別格の存在でした。


近衛十四郎   大乗寺 八郎

東 竜子

三條 輝子

本郷 秀雄
 大乗寺と近衛の仲の悪さは有名だつたそうです。
顔を見合わせても、お互いにそっぽを向いた侭で、二人が顔見合わせて笑うのは芝居の時だけ、後はムスッとしてソッポを向いる始末、役者と云うのはライバルは不仲と相場は決まっていますが、この二人の仲の悪さは特別だつたそうで、或る年の年末の慰労会で、突如、二人が取ッ組み合い、あつと云う間に近衛が、大乗寺の鼻に噛み付き、引き離された時には、大乗寺の顔面鮮血に塗れ、外科に駆けつけ手当てを受け、大過なきを得たと云うことです。
 
近衛は運動神経パッグンで、チャンバラの名手、大乗寺はチャンバラが下手で濡れ場が上手であつたそうです。
 水島道太郎と云う人は、万事にそつなくなく如才なく、社長にも何愛がられて居たそうですが、御婦人に対しては凄腕で、一時間もしゃべると物にしてしまい、この方面では大変な才能だつたそうです。 
 
 ハヤブサヒデトと云う俳優はサーカスの出身だとかで、綱渡りと格闘、オートバイで人気がありました。
 このオートバイが桟橋から海にザンブリ飛び込むのと、フルスピートで悪漢を追いかける場面が売り物でしたが、前編で見た画面が後編でも、別な題名の映画でも、繰り返し出て来るのには閉口しました。
 ハヤブサヒデトの映画は一本、フイルムセンターに残っております。
 
 外山先生は、「お殿様と髭」 と云うデビユー作品で、大いに張り切り、お宛がいのフイルムが足りなくなつて、友人の日活の俳優、中田弘二 に工面して貰い、一時間十五分の作品を作つたそうです。
 
 完成試写で長いのに気づいた社長は、
「こんな長い物を作りゃあがつて、フイルムは如何したんだ」と叱られて、友達に工面してもらいましたと云うと「馬鹿野郎それはネガフイルムの事だろう、ポジフイルムもそいつが工面して呉れるのかーー」と一発噛まされ、迂闊にもポジフイルムの事は考えて居なかったので、泣く泣く縮める作業をしたそうです。
 



大都映画撮影所正門
大都映画スタジオ見学記
小生は友人と、巣鴨の大都映画撮影所を訪ねた事があります。
 昭和十五年の事だつたと思いますが、当時、音楽を担当していた、杉田良造と云う人の紹介状を持つて、巣鴨の撮影所を見学させて頂きました。

大都映画撮影所建物配置図
 その時の様子を思い出してみますと、スタジオは推定約八十坪位の倉庫の様な感じの建物で、その四隅にセツトが組まれており、現代劇のセットが2組、時代劇のセットが2組組まれて居りました。
 その1組のセットで撮影が行われていました。
 そのセットは時代劇の居間の様な作りで、「松村光夫」 と云う老優と「沢 勝彦」と云う子役、「小浜美千代」と云う女優が出演して居ました。
 そのセットのトップライトが点くと、撮影開始となりましたが、ミッチエルのカメラの騒音たるや物凄く、数秒で一カット撮り終えると、カメラ位置もライテングも変わらにレンズを切り替えて、次のカットに移るようで、その早い事、驚くべきスピートでありました。
 カメラが止まると、外の通りを走るトラックの警笛なぞが、ハツキリと聞こえて来ると云うような環境で、週二本の映画を撮り続けて居たのです。
 
外にオープンセツトを組む為の80坪ほどの空き地があり、食堂と称する建物がありましたが、これが縄のれんで居酒屋の様な拵え、空樽が並んでおり、これはセットですかと聴いたら、れっきとした食堂で、撮影に使用しない時には、ここで弁当なぞを食べても良いので、食堂と呼んでいるのだと聴かされました。
 
 その他に長屋が一並び、それと向かい合って、店屋が二棟、後は土蔵が有った様に記憶しております。

 スタジオの出口にベンチが有って、フイルムの空き缶に砂を入れた、吸殻入れ
が有ったのを覚えています。

 大都映画がトーキー用の防音スタジオを完成したのは、1941年の事で使われた期間は、半年に満たなかったと思います。
 それ以前は全て、オールアフレコであつたのです。



松村 光夫
極東と全勝
 フイルムセンターに極東映画の忍術ものが何本か残っていると思います。
 マツダ映画社にも断片で、極東映画が何本か残って居ると思いますが、これは全く弁士の力量無しには観て居られないしろものです。
 
 しかし、こう云う映画を新幹線で、わざわざ観にくる元活動狂の少年だつた方に「フイルムセンター」で偶然お眼に掛かりました。
 此処で極東映画の忍術物を上映した時、偶然、名古屋からこの映画を観に来られた方と出会い、聊かならず驚きました。
 小生もかなり熱心な活動愛好者ですが、このお方は活動中毒が昂じて、活動気違いと云うべき、稀有なお方でありました。
 名刺の交換も致さずにお別れした事は、将に千歳の痛恨事でありまして、上には上があるものなのです。
 
 大都映画にマキノトーキーに就きましては、多くの方々が興味を持たれて、語り継がれた噺もありますが、東活、宝塚、甲陽、全勝、となると、完全に映画史から欠落しており、地方の小都市の映画館で、こうした映画を観て、心躍らせた方々は、殆ど故人となられこの世に残っておりません。
 フイルムも無く、映画史にも関連した記事が無く、これらの映画を観た人々もこの世の人で無いと云う事は、殆ど完全に消滅して仕舞ったと云うことになると思います。
 
 
今、仮にこの章を終えますが、今後、聊かの心当りを頼りにし、追記をしたいと思って居ります。



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