仮名手本忠臣蔵の 人形口上でも、お客様には、お茶お菓子なぞを召し上がられ、ユル、ユル、ユルと御見物下さい と「口上」を述べますが、只今では客席で飲食しながら、芝居を見る訳には行きませんが、舞台を三階の高みから見下ろし、俳優が見せ場、仕所で車輪になつたら、○○屋なぞと声を掛け、帰りには安いコーヒー屋なぞに寄り、今日は面白かったねぇ、○○屋はオヤジさんに似てきたねぇ、なぞと云う話を仲間の爺として、一日をすごして帰るような 爺の芝居噺 でありますので、そのお積りで御覧下さいます様、お願い申しあげます。 |
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芝居を始めて観たのは、浅草の「宮戸座」で、沢村伝次郎の「俵星元蕃」であつた様です。 伝次郎は後の納子で、浅草の人気者であり、剣劇の様なものにも手を染めていたようです。 元蕃が積み上げた俵を槍で突き崩す場面と、赤穂義士の討ち入りを知って、槍を小脇にして、紙片の雪が舞い上がる引き込みは誠に勇ましく、これが初見でしてこれ以来、芝居に興味を抱く様になりましたが、なかなか連れていつて貰えませんでした。 当時の宮戸座の一階は椅子席では無く枡席で、大劇場の様に茶屋を通すと云うような事は無くかかつた様で、当日売りで切符が買え、一枡で五人詰めであつた様に思います、何度か連れて行って貰いましたが、その都度おふくろにくどくどと、途中で帰りたいとか、何か買えとか云い出して、愚図らない事を約束させられました。 この小屋で観たのは、赤垣源蔵、清水一角、高田の馬場なぞを薄っすらと覚えています。 同じ枡席に入った他所のオバサンが、お菓子を呉れて芝居が面白く無くなると、それを食べながら寝た覚えがあります。 平成十九年十二月の国立劇場で、現、染五郎が清水一角をやりましたが、これも伝次郎で観た様な気がします。 その昔、国立劇場で忠臣蔵の通しがあり、富十郎が小林平八郎で、銀之助(今の団蔵ですが)を相手に泉水の立ち回りがありました。 これが手の込んだタテで、拍手喝采でした。 伝次郎もこうした、激しい立ち回りを得意にし、売り物にしていたようです。 おふくろの時代は、芝居と書いて「シバヤ」と読んだようで、岡本綺堂の「ランフの下にて」でも、柳橋の姐さん方は芝居をシバヤと呼んでいたと云つております。 老生の おふくろ は目黒の碑文谷の百姓の娘で、ドウいう縁を辿ってか十三才の時に築地の九代目団十郎の屋敷に子守奉公に出て、十五の時に奥さんの世話で、新橋の髪結いの梳き子になつて、修行したので「アタシャ出がいいんだ」と自慢していましたが、そういう環境に有りました事で、芝居との縁が付き、九代目を観たと云うのが何よりの自慢で、市村座で菊、吉が覇を競っていた、大正の初め頃の話が出ると、播磨屋贔屓丸出しで。声が立たないから、六代目は駄目だと云つていました。 老生が自分銭で月に二回ほど、「東劇」の三階、歌舞伎座の三階、演舞場の三階、専ら高い所で舞台を見下ろし、大向こうのおじさんに 坊や(老生にも坊やと呼ばれた時代が有りました)感心だナ と褒められて嬉しがっていると、我が母親は セセラ笑い 「お前なんぞ、チットばかりシバヤを覗いて、六代目がどうたとか、播磨屋がこうだこうだと、能書を云うんじゃ無いよ、そんな話は聞いちゃいられないよ、アタシなんぞは若い頃に九代目を観てるんだ、云いたく無いが、お前の生まれる前に、市村座で大播磨をさんざん観てるんだョ」と云いたく無いことを散々に云い、老生を小馬鹿にしておりました。 今老生が若い人が歌舞伎の話をしていると、そこに割り込んで「あたしゃね、六代目と大播磨をみてるんですよ」と、云いたくてウズウズとするのであります。 このページは、かなりそのケが有りますが、悪しからずーーーー。 歌舞伎劇を残したのは、十代目団十郎、五代目菊五郎、初代左団次と云う俳優と、守田勘弥と云う興行師ですが、この経緯は、岡本綺堂の「ランプの下にて」や「綺堂芝居話」に詳しいく書かれてりまいす。 江戸末期の人気役者 岩井半四郎とか坂東彦三郎が、明治になつて相次いで失くなつた時、坂彦や半四郎の出ねえシバヤなんぞ、オカシクッて観られるかと云う年寄りが居て、歌舞伎は急激に衰退したそうです。
商人は此処で御接待なぞを致し、お客様は御大身のお侍から、大奥のお女中衆、大店の旦那様から、お内儀様やお嬢様まで、職人衆でも懐の暖かい向きは、身銭を切って通いました。 天皇様が芝居をご覧になつたのは、その昔、初代中村勘三郎の猿若踊りなぞをご覧になつたと云う伝説が有るばかりで、明治天皇は初めてのご見物、皇后とお供の女官なぞは、皆さん禁裏様の出ですから、若い頃にはご覧になっていて、久しくご縁が無くなった所、久しぶりの芝居見物で、大喜びで有ったと思います。 歌舞伎天覧を企画して、成功させた 守田勘弥 と云う人は、歌舞伎界の大功労者ですから、歌舞伎座の前に銅像を建て、功績を称えても良いように思っています。 此れで 歌舞伎 の人気と 格式 が一挙に高まり、団十郎の活歴やら、菊五郎のザンギリ物とか、義太夫狂言では役の性根を掘り下げるなぞと、難しい話が出て来て、こういう芝居の演じ方が、これ以降の基本となつて来た様です。 例えば 高 師直 なぞに就いて、好色漢で意地の悪い欲張りではあるが、やはり従四位の少将と云う品位を滲み出さなければいけない、なぞと云う難しい話になつて来て、演技に工夫を凝らすと云う事になつて来ました。 当時、市川団蔵(7代目)と云う上手い役者が居て、「あたしは 師直 をやる時には、ケチで欲張りで助平な大家になつた気でやります」と云つたそうです。 歌舞伎役者が、いろいろな狂言の役々をどう演じるかは、役者の技量でありますが、歌舞伎を見物するお客は、細かいことは云いませんで、役者を見ているのであります。 スターである役者は、伝統ある家柄からだけ生まれ、幼いころからスターとして、大切に育てられて、世代を担うスターとなつて行くです。
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歌舞伎と云う演劇に就いて、いろいろな議論がありますが、元来は忠臣蔵の人形口上に有る通り、お茶、お菓子、お酒なぞを召し上がりながら、御贔屓の役者を眺めて、時折は掛け声の一つも掛けて、今日は良かつた面白かつたと帰る事が出来れば、それで良いものだと思います。 九代目団十郎と五代目菊五郎以来、従来の口伝や型に加えて、演者がその役の中に入り込み、それぞれの役に成り切ると云う様な難しい話が出て、演ずる役の彫り下げが行はれ、それで芝居の深みが出て来たのだと云われていますが、老生なぞは、歌舞伎とは役者を観る物だと考えておりますので、難しい話は解りません。 一つ云える事は、歌舞伎と云う芝居は安心して、観ていられると云う事です。 それによつて数少ない演目に磨きが掛けられ、加えて俳優としての厳しい訓練があつて、肉体的な条件を矯正或いは育成助長し、技術的に成長して、完成度が高いです。 役柄に添っての伝統と口伝が、演技の密度は極めて高いものにしており、観客は安心して芝居を観ていられます。 歌舞伎以外にも色々なジャンルの演劇がありますが、スタニラフスキーを少し齧って、新劇で御座いと自称する芝居なぞは、ゼニを貰っても観たくありません。 新しい芝居は、主役や重要な脇役は兎も角として、チョイ役や通行人の酷い事、これが無名の新劇団となると、発声訓練も録に出来て居ず、まともにセリフなぞ云えない様な、飛んでも無いのが俳優が出て来て、赤毛の鬘を付けて、ポケットにてを入れウロウロと歩き廻り、突如として飛んだり跳ねたり歌を歌ったり、とても頂けません。 流行歌手の芝居と来ては、最早語る言葉が有りません。 歌舞伎は何と云いましても、芝居に安定感があり、同じ演目でも演者が変わると、別な芝居になりますが、これは歌舞伎の本質が、俳優の演技を堪能する為のものだからと思われます。 |
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戦後の歌舞伎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和三十年頃、私鉄の目ぼしい駅の付近に映画館が進出し、芝居から映画に鞍替えこをする大劇場が出てきたました。 歌舞伎離れが起きたのです。 歌舞伎の俳優が映画に出て、歌舞伎座の三階から見下ろしたところでは、一階に空席が目立つてきました。 更に追い打ちを掛けるように、テレビの普及が映画と歌舞伎の観客を減らし始め、雨後の筍のように矢鱈と増えた映画館が、バタバタとおかしくなつて、生き残りをかけた映画界は成人映画と云う、大人が手軽に面白くなる映画を作り出し、それでも持ち客足を繋ぎ切れずスーパーに鞍替えしました。 実演の劇場はストリップと云う、裸かになつた女の人が、賑やかな音楽に乗り、オッパイをぶらぶらさせて、ウロウロ歩き廻る様なものを見せて、ちょつとした盛り場には、この手の劇場が続出し、これも行き着く所まで行くと、俄然流行らなくなり、娯楽の中心はテレビに変つた様に思われました。 文楽が興行として成り立たなくなり、御国の補助で命脈を繋ぐ状態になつた頃、歌舞伎の観客も減りました。 歌舞伎の人々は強い危機意識を持ち、「尾上菊五郎劇団」の人達、松緑、九朗衛門、羽左衛門、なぞか講演会を開き、歌舞伎がお国の補助を受ける様な事になつたら終わりで、あたし達も一生懸命やりますから、皆さんも応援して下さいと云うような話を、かなり頻繁に聞く機会がありました。 歌舞伎界随一の理論家、松緑が熱弁のあまり、べらんめえ言葉になつたり、物知りの羽左衛門が、仕方話をしてくれたのが、懐かしく思い出されます。 歌舞伎座プロと云うのを作り、ユニツト契約で映画にも出て、映画を通じ新しい観客を得ましたし、テレビに歌舞伎の幹部俳優が出演し、これも歌舞伎の観客層を広げましたし、菊之助時代の現菊五郎が NHK の大河ドラマに出演し、この人が演ずる薄幸の貴公子を見て、歌舞伎座に足を運ぶ娘さんが増えたでしょうし、現幸四郎が染五郎時代の 大河ドラマやラマンチヤの男 が、若い世代を歌舞伎に引き付け、観客層の若返りが歌舞伎の行き先を明るくしたと思います。 この時期の十一代目の団十郎は、歌舞伎の華でした。 海老蔵時代の人気は大変なもので、この人は荒事が出来て、立役が出来て、二枚目が出来て、何とも云えない悩ましげな眼差しをしていて、この人のプロマイドを見つめて居ると、老若を問わずご婦人はポーつと逆上せあがり、出演劇場の出口に群れ集まり、海老さまが姿を現すと、嬌声あたりに響き渡る云う話でした。 今の十二代目海老蔵の舞台や出演した映画を観ますと、お父さんよりお祖父さんに感じが良く似ています。 更に云うと長谷川一夫に眼の感じが似て、誠に巧まざる色気があります。 この人は好い役者で上手い役であつた、御祖父さんを超えた魅力のある、大変な役者に成るだろうと密かに思っております。 話は十一代目に戻ります。 この人が十一代目団十郎を襲名するに当り、市川三升に十代目追贈すると云う例を作り、成田山に出掛けて、お練りなる行列をやり、色々とパレードがあつて大変な前景気でした。 襲名時の行事は、松竹の永山武臣社長が演出をしたと云う話ですが、これが新しい観客の動員に役立ち、観客が若返りました。 この優れた歌舞伎の指導者が居なかつたらば、歌舞伎も序々に衰退し、恐らく文楽と同じ軌跡を辿り衰退したように思われます。 襲名と云う伝統行事を、俳優を大きく育てるステップとして、細部に亘り演出し、俳優の人気を盛り立て、歌舞伎の観客層を広げてるのに役立て、今日の隆盛を見ることが出来たのは、永山武臣と云う天才的な事業家の功績で、名前が大きくなると役者も自然に大きくなると云われていますが、有楽座で赤い鎧を着て、義経をやっていた、コロコロと小太りの 中村もしを が、中村勘三郎になつたら、見違える様に良い役者になったのは有名な話です。 歌舞伎が文楽の二の舞を踏まず、現在の隆盛を得ている事は、喜ばしいことであります。 |
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最近の歌舞伎話は 演劇界 なぞで、御調べ下さい。 |