十五代 羽左 二代 猿之助
歌舞伎三階席聞き書き
二代 左団次  十五代 羽左 
 歌舞伎芝居は鑑賞するものでは無く、見物するものだと、私は思っております。
 仮名手本忠臣蔵の 人形口上でも、お客様には、お茶お菓子なぞを召し上がられ、ユル、ユル、ユルと御見物下さい と「口上」を述べますが、只今では客席で飲食しながら、芝居を見る訳には行きませんが、舞台を三階の高みから見下ろし、俳優が見せ場、仕所で車輪になつたら、○○屋なぞと声を掛け、帰りには安いコーヒー屋なぞに寄り、今日は面白かったねぇ、○○屋はオヤジさんに似てきたねぇ、なぞと云う話を仲間の爺として、一日をすごして帰るような 爺の芝居噺 でありますので、そのお積りで御覧下さいます様、お願い申しあげます。
 
 芝居の初見
 芝居を始めて観たのは、浅草の「宮戸座」で、沢村伝次郎の「俵星元蕃」であつた様です。
 伝次郎は後の納子で、浅草の人気者であり、剣劇の様なものにも手を染めていたようです。
 元蕃が積み上げた俵を槍で突き崩す場面と、赤穂義士の討ち入りを知って、槍を小脇にして、紙片の雪が舞い上がる引き込みは誠に勇ましく、これが初見でしてこれ以来、芝居に興味を抱く様になりましたが、なかなか連れていつて貰えませんでした。
 
 当時の宮戸座の一階は椅子席では無く枡席で、大劇場の様に茶屋を通すと云うような事は無くかかつた様で、当日売りで切符が買え、一枡で五人詰めであつた様に思います、何度か連れて行って貰いましたが、その都度おふくろにくどくどと、途中で帰りたいとか、何か買えとか云い出して、愚図らない事を約束させられました。
 
 この小屋で観たのは、赤垣源蔵、清水一角、高田の馬場なぞを薄っすらと覚えています。
 同じ枡席に入った他所のオバサンが、お菓子を呉れて芝居が面白く無くなると、それを食べながら寝た覚えがあります。
 
 平成十九年十二月の国立劇場で、現、染五郎が清水一角をやりましたが、これも伝次郎で観た様な気がします。
 
 その昔、国立劇場で忠臣蔵の通しがあり、富十郎が小林平八郎で、銀之助(今の団蔵ですが)を相手に泉水の立ち回りがありました。
 これが手の込んだタテで、拍手喝采でした。
 伝次郎もこうした、激しい立ち回りを得意にし、売り物にしていたようです。
 
 おふくろの時代は、芝居と書いて「シバヤ」と読んだようで、岡本綺堂の「ランフの下にて」でも、柳橋の姐さん方は芝居をシバヤと呼んでいたと云つております。
 
 老生の おふくろ は目黒の碑文谷の百姓の娘で、ドウいう縁を辿ってか十三才の時に築地の九代目団十郎の屋敷に子守奉公に出て、十五の時に奥さんの世話で、新橋の髪結いの梳き子になつて、修行したので「アタシャ出がいいんだ」と自慢していましたが、そういう環境に有りました事で、芝居との縁が付き、九代目を観たと云うのが何よりの自慢で、市村座で菊、吉が覇を競っていた、大正の初め頃の話が出ると、播磨屋贔屓丸出しで。声が立たないから、六代目は駄目だと云つていました。

 老生が自分銭で月に二回ほど、「東劇」の三階、歌舞伎座の三階、演舞場の三階、専ら高い所で舞台を見下ろし、大向こうのおじさんに 坊や(老生にも坊やと呼ばれた時代が有りました)感心だナ と褒められて嬉しがっていると、我が母親は セセラ笑い 「お前なんぞ、チットばかりシバヤを覗いて、六代目がどうたとか、播磨屋がこうだこうだと、能書を云うんじゃ無いよ、そんな話は聞いちゃいられないよ、アタシなんぞは若い頃に九代目を観てるんだ、云いたく無いが、お前の生まれる前に、市村座で大播磨をさんざん観てるんだョ」と云いたく無いことを散々に云い、老生を小馬鹿にしておりました。
 今老生が若い人が歌舞伎の話をしていると、そこに割り込んで「あたしゃね、六代目と大播磨をみてるんですよ」と、云いたくてウズウズとするのであります。
 このページは、かなりそのケが有りますが、悪しからずーーーー。
 
  歌舞伎劇を残したのは、十代目団十郎、五代目菊五郎、初代左団次と云う俳優と、守田勘弥と云う興行師ですが、この経緯は、岡本綺堂の「ランプの下にて」や「綺堂芝居話」に詳しいく書かれてりまいす。
 江戸末期の人気役者 岩井半四郎とか坂東彦三郎が、明治になつて相次いで失くなつた時、坂彦や半四郎の出ねえシバヤなんぞ、オカシクッて観られるかと云う年寄りが居て、歌舞伎は急激に衰退したそうです。

九代目団十郎   五代目菊五郎        又聴き噺
 団菊とは、九代目団十郎と五代目菊五郎で、徳川様が倒れて薩長の藩閥政権が、大急ぎで欧米から近代文明と、工業技術を導入して、文明開化とやらを急ぎ、古いものは旧弊として否定される中で、歌舞伎も当世流を取り入れ、ザンギリ物なぞと云う当時の世相に迎合した、現代物の狂言も現れ、新聞にも芝居の批評が載り、森 鴎外先生の弟さんで三木竹二と云うお医者様は、患者なぞは診ないで、歌舞伎ばかり観て、それ故に、この方の批評は、大変権威が有ったと聴いております。

九代目 団十郎
 此処に守田勘弥と云う稀代の興行師が現れ、あの筋、この筋を手繰りに手繰り、明治20年4月26日より4日間、伯爵 井上 馨 邸で、天皇、皇后両陛下に歌舞伎をご覧に入れる事に成功しました。
 御存知の通り徳川様の時代には、芝居者は建前として、浅草の猿若町から出る事を許されず、吉原と猿若町は悪所と云うことになつておりました。

五代目 菊五郎
 今も昔も、悪所と云う処は面白いので、通いたがります。
 商人は此処で御接待なぞを致し、お客様は御大身のお侍から、大奥のお女中衆、大店の旦那様から、お内儀様やお嬢様まで、職人衆でも懐の暖かい向きは、身銭を切って通いました。
 
 天皇様が芝居をご覧になつたのは、その昔、初代中村勘三郎の猿若踊りなぞをご覧になつたと云う伝説が有るばかりで、明治天皇は初めてのご見物、皇后とお供の女官なぞは、皆さん禁裏様の出ですから、若い頃にはご覧になっていて、久しくご縁が無くなった所、久しぶりの芝居見物で、大喜びで有ったと思います。
 歌舞伎天覧を企画して、成功させた 守田勘弥 と云う人は、歌舞伎界の大功労者ですから、歌舞伎座の前に銅像を建て、功績を称えても良いように思っています。

 此れで 歌舞伎 の人気と 格式 が一挙に高まり、団十郎の活歴やら、菊五郎のザンギリ物とか、義太夫狂言では役の性根を掘り下げるなぞと、難しい話が出て来て、こういう芝居の演じ方が、これ以降の基本となつて来た様です。
 
 例えば 高 師直 なぞに就いて、好色漢で意地の悪い欲張りではあるが、やはり従四位の少将と云う品位を滲み出さなければいけない、なぞと云う難しい話になつて来て、演技に工夫を凝らすと云う事になつて来ました。
 
 当時、市川団蔵(7代目)と云う上手い役者が居て、「あたしは 師直 をやる時には、ケチで欲張りで助平な大家になつた気でやります」と云つたそうです。
 
 歌舞伎役者が、いろいろな狂言の役々をどう演じるかは、役者の技量でありますが、歌舞伎を見物するお客は、細かいことは云いませんで、役者を見ているのであります。
 スターである役者は、伝統ある家柄からだけ生まれ、幼いころからスターとして、大切に育てられて、世代を担うスターとなつて行くです。
 
  


十五代目 羽左衛門
   六代目 梅幸
団菊以降の事
 菊五郎、団十郎は明治の末、相次いで世を去ります。
 此処で又、歌舞伎存続の危機が伝えられますが、その危機は、当時の若手、五代目歌右衛門、十五代目羽左衛門、七代目幸四郎、六代目梅幸、二代目左団次、七代目市川中車、なぞが活躍で乗り切り、六代目菊五郎と初代吉右衛門が新進俳優として人気を博し、関西では中村鴈冶郎、実川延若、なぞが戦前の歌舞伎を盛り上げて来たことは、演劇史の語り伝える所で、今更らしく老人が能書きを云う所では有りませんが、大正と云う、日本の最も良い時代、歌舞伎も華やかに栄えました。


七代目 幸四郎
 
 七代目 松本幸四郎の事
 松本幸四郎と云う人の孫が今の歌舞伎を支えています。
 現団十郎、現幸四郎、現吉右衛門、芝雀、曾孫には、染五郎、海老蔵、松緑が居ます。
 この人を観たのは昭和二十二年十一月の東京劇場顔見世興行で、今まで御蔵になって居た、忠臣蔵の通しで、大変な人気であり、半日並んで三等の前売りを手にいれました。
 この人が、由良之助を務めまし
た。
 
 今の歌舞伎の大幹部は、半ば以上がこの人の血統で占められていますが、その意味でもこの人は歌舞伎界の大恩人で、どこかに銅像でも建てたい気分です。
 


 将軍江戸を去る の羽左衛門
 十五代目   市村羽左衛門の事
この人の舞台を観ている人は、年齢的には、八十五歳を超えています。
 そんな人々が、この人の舞台を僅かに覗き見した程度であり、今や伝説の名優です。
 終戦の直前に疎開先で亡くなった時、六代目は「上手い役者ではなかつたが良い役者だつた」と語りましたが、何をやつても羽左衛門、と云う悪口も有りましたが、それで通せる魅力を、この俳優は持つて居たと云はれていました。
 歌舞伎が役者を見る芝居だと云う事なら、羽左衛門はまさに歌舞伎の本質を具現した役者だつたと思います。
 老生はこの人の芝居を二度観た事があります
 
石切り梶原と御所の五郎蔵で、東京劇場三階、入場料は、確か八十銭でした


将軍江戸を去る の羽左衛門

天一坊 御所の五郎蔵 不明


鏡獅子


菊 吉 の時代
 
 相共に
   流し合たる
     汗思う
       吉右衛門  

伊賀越 唐木政右衛門 



六代目 菊五郎 
菅原伝授手習鑑 松王


六代目 菊五郎 
 老生が菊、吉を云々するのは、甚だおこがましいのです。
 彼らの最晩年を僅かに記憶しているだけで、最も充実した時代は知りません。
 菊五郎の芝居で、もつとも印象に残つているのは、昭和二十年の五月二十日に新橋演舞場で観た、棒しばりと義経千本桜の鮨屋でありました。
 棒しばりの開幕前に菊五郎は次郎冠者の扮装の儘で挨拶をしました。
 浜松で空襲に逢い、衣装と道具を焼いた話と、米英撃滅の為に最後まで頑張りましょうと云う様な話をして、棒しばりは松羽目ではなく、紅白の幕前で演じられました。
 この配役は、太郎冠者が沢村訥子、大名は寿美蔵、鮨屋は権太が菊五郎、弥助が男女蔵、お里が菊之助、梶原が寿美蔵でした。
 この日は空襲もなく静かでしたが、これから五日後に演舞場は東京最後の空襲で、焼けおちてしまいました。

初代 吉右衛門  
菅原伝授手習鑑 松王

初代 吉右衛門
  
 
 歌舞伎俗論
 歌舞伎と云う演劇に就いて、いろいろな議論がありますが、元来は忠臣蔵の人形口上に有る通り、お茶、お菓子、お酒なぞを召し上がりながら、御贔屓の役者を眺めて、時折は掛け声の一つも掛けて、今日は良かつた面白かつたと帰る事が出来れば、それで良いものだと思います。

 九代目団十郎と五代目菊五郎以来、従来の口伝や型に加えて、演者がその役の中に入り込み、それぞれの役に成り切ると云う様な難しい話が出て、演ずる役の彫り下げが行はれ、それで芝居の深みが出て来たのだと云われていますが、老生なぞは、歌舞伎とは役者を観る物だと考えておりますので、難しい話は解りません。

 一つ云える事は、歌舞伎と云う芝居は安心して、観ていられると云う事です。
 それによつて数少ない演目に磨きが掛けられ、加えて俳優としての厳しい訓練があつて、肉体的な条件を矯正或いは育成助長し、技術的に成長して、完成度が高いです。
 役柄に添っての伝統と口伝が、演技の密度は極めて高いものにしており、観客は安心して芝居を観ていられます。

 歌舞伎以外にも色々なジャンルの演劇がありますが、スタニラフスキーを少し齧って、新劇で御座いと自称する芝居なぞは、ゼニを貰っても観たくありません。
 
 新しい芝居は、主役や重要な脇役は兎も角として、チョイ役や通行人の酷い事、これが無名の新劇団となると、発声訓練も録に出来て居ず、まともにセリフなぞ云えない様な、飛んでも無いのが俳優が出て来て、赤毛の鬘を付けて、ポケットにてを入れウロウロと歩き廻り、突如として飛んだり跳ねたり歌を歌ったり、とても頂けません。
 
 流行歌手の芝居と来ては、最早語る言葉が有りません。

 歌舞伎は何と云いましても、芝居に安定感があり、同じ演目でも演者が変わると、別な芝居になりますが、これは歌舞伎の本質が、俳優の演技を堪能する為のものだからと思われます。
 

六代目 歌右衛門が 芝酣を襲名、口上を述べる  吉右衛門
六代目 菊五郎
          
中村 時蔵
若き日の 六代目歌右衛門
当時 福助
六代目歌右衛門 坂東 三津五郎
中村 梅玉 二世市川猿之助 黒塚 黒塚の幕切れ
伊賀越 奉書試合 吉 羽 市川寿美蔵 左団次  勝 海舟
戦後の初芝居
 歌舞伎が戦後復興したのは、マックアーサーの副官フォービアン・パワーズ少佐のお陰であり、戦前、日本に滞在し、お寺と間違えて歌舞伎座に入り、それ以来の歌舞伎フアンとなつて仕舞い、自分が見たいので、歌舞伎は封建主義の芝居、愛国主義に繋がる危険な遺物とされていた歌舞伎を解禁とし、上演されたと言うのは周知の通りで、彼は自分でキヤステイングした表を、松竹の大谷竹次郎に渡し、この配役で忠臣蔵を上演する様にと命令したそうです。
 
 命令されて大喜びに喜んだのは松竹で、昭和二十一年、東京劇場の顔見世興行で、忠臣蔵の上演を堂々と三か月に亘り興行し、連日の満員、このときの入場料、確か一等席が十五円、三階は二円五十銭だつたと記憶しています。
 戦後の歌舞伎
 昭和三十年頃、私鉄の目ぼしい駅の付近に映画館が進出し、芝居から映画に鞍替えこをする大劇場が出てきたました。
 歌舞伎離れが起きたのです。
 歌舞伎の俳優が映画に出て、歌舞伎座の三階から見下ろしたところでは、一階に空席が目立つてきました。
 更に追い打ちを掛けるように、テレビの普及が映画と歌舞伎の観客を減らし始め、雨後の筍のように矢鱈と増えた映画館が、バタバタとおかしくなつて、生き残りをかけた映画界は成人映画と云う、大人が手軽に面白くなる映画を作り出し、それでも持ち客足を繋ぎ切れずスーパーに鞍替えしました。
 
 実演の劇場はストリップと云う、裸かになつた女の人が、賑やかな音楽に乗り、オッパイをぶらぶらさせて、ウロウロ歩き廻る様なものを見せて、ちょつとした盛り場には、この手の劇場が続出し、これも行き着く所まで行くと、俄然流行らなくなり、娯楽の中心はテレビに変つた様に思われました。
 
 文楽が興行として成り立たなくなり、御国の補助で命脈を繋ぐ状態になつた頃、歌舞伎の観客も減りました。
 歌舞伎の人々は強い危機意識を持ち、「尾上菊五郎劇団」の人達、松緑、九朗衛門、羽左衛門、なぞか講演会を開き、歌舞伎がお国の補助を受ける様な事になつたら終わりで、あたし達も一生懸命やりますから、皆さんも応援して下さいと云うような話を、かなり頻繁に聞く機会がありました。
 
 歌舞伎界随一の理論家、松緑が熱弁のあまり、べらんめえ言葉になつたり、物知りの羽左衛門が、仕方話をしてくれたのが、懐かしく思い出されます。

 歌舞伎座プロと云うのを作り、ユニツト契約で映画にも出て、映画を通じ新しい観客を得ましたし、テレビに歌舞伎の幹部俳優が出演し、これも歌舞伎の観客層を広げましたし、菊之助時代の現菊五郎が NHK の大河ドラマに出演し、この人が演ずる薄幸の貴公子を見て、歌舞伎座に足を運ぶ娘さんが増えたでしょうし、現幸四郎が染五郎時代の 大河ドラマやラマンチヤの男 が、若い世代を歌舞伎に引き付け、観客層の若返りが歌舞伎の行き先を明るくしたと思います。
 
 この時期の十一代目の団十郎は、歌舞伎の華でした。
 
 海老蔵時代の人気は大変なもので、この人は荒事が出来て、立役が出来て、二枚目が出来て、何とも云えない悩ましげな眼差しをしていて、この人のプロマイドを見つめて居ると、老若を問わずご婦人はポーつと逆上せあがり、出演劇場の出口に群れ集まり、海老さまが姿を現すと、嬌声あたりに響き渡る云う話でした。

 今の十二代目海老蔵の舞台や出演した映画を観ますと、お父さんよりお祖父さんに感じが良く似ています。
 更に云うと長谷川一夫に眼の感じが似て、誠に巧まざる色気があります。
 この人は好い役者で上手い役であつた、御祖父さんを超えた魅力のある、大変な役者に成るだろうと密かに思っております。
 
 話は十一代目に戻ります。
 この人が十一代目団十郎を襲名するに当り、市川三升に十代目追贈すると云う例を作り、成田山に出掛けて、お練りなる行列をやり、色々とパレードがあつて大変な前景気でした。
 
 襲名時の行事は、松竹の永山武臣社長が演出をしたと云う話ですが、これが新しい観客の動員に役立ち、観客が若返りました。
 この優れた歌舞伎の指導者が居なかつたらば、歌舞伎も序々に衰退し、恐らく文楽と同じ軌跡を辿り衰退したように思われます。

 襲名と云う伝統行事を、俳優を大きく育てるステップとして、細部に亘り演出し、俳優の人気を盛り立て、歌舞伎の観客層を広げてるのに役立て、今日の隆盛を見ることが出来たのは、永山武臣と云う天才的な事業家の功績で、名前が大きくなると役者も自然に大きくなると云われていますが、有楽座で赤い鎧を着て、義経をやっていた、コロコロと小太りの 中村もしを が、中村勘三郎になつたら、見違える様に良い役者になったのは有名な話です。
 
 歌舞伎が文楽の二の舞を踏まず、現在の隆盛を得ている事は、喜ばしいことであります。
 

  
最近の歌舞伎話は 演劇界 なぞで、御調べ下さい。

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