二間間口の店屋  
昭和巷の聞書き


通りに面した下屋


露地の入口

 佃島、月島、の街並みは、昔、住んでいた町の面影が、色濃く残って居て、懐かしいのです。
 我々が育つた町と少し違うのは、横丁に入りそこを通り抜けると、原っぱが無い事で、此処は東京の真ん中、原っぱが無い事のが当たり前で、老生の住んで居た所は、東京の郡部でありました。


砂利

横丁
 

 
昭和十年頃の大通り

町の様子と人の姿
昭和七年から十三年頃の目黒、世田谷、辺り風物です。

弐軒長屋二間間口の店
  こうした作りの店が標準だつた
   昭和一桁時代、目黒、世田谷あたりの集落を思い出して見ると、私鉄の駅は昔からの集落からちょつと離れた、畑や原っぱの真ン中にぽつと建ち、線路に沿って少し歩くと、踏切で仕切られた、十二、三軒程の商店が有る集落の中心部に出ました。

  そこにバスの停留所があつて、一時間に一本位の間隔で、渋谷、武蔵小山、三軒茶屋、中目黒なぞに行くバスの停留所があり、冬は焼き芋や甘酒、夏は掻き氷なぞを売る店がありました。
 大体の買い物は 東京 まで出ないで、このバスの行き先で間に合つた様です。

 この旧道の両側に店屋が並んでいましたが、旧道は線路で分断され、踏切が出来て電車は客車が1両で、時々トコトコ走り、多摩川の砂利を積んだ貨物電車の方は、五、六輌連結でに引かれて、勇ましく走つて居ました。


池上線 五反田駅 昭和七年頃
五反田駅に電車が1輌で、停まつている。
 駅から少し離れて、商店街があつたと記憶しています。
 

自動車の通る大通り昭和七年頃
 集落の中心に銭湯が有り、店屋の構えは、間口が二間から三間の二階建でが多く、米屋と酒屋は比較的立派な店構えで、ケヤキ板の看板を挙げており、土地でも古い店が多かつたです。
 
 米屋には精米機と云う、玄米を白米にする機械があつて、ここで出た糠は一升桝山盛りで一銭でした。
 この糠は主に農家の牛や、軍隊の馬の餌になつたそうです。
 
 酒屋では瓶詰めのお酒の他に、店の奥に酒樽を三樽程並べ、一杯十銭のコップ酒と云う、極くお手軽なお酒が有りまして、夕方から夜は仕事帰りの小父さんや、銭湯帰りの小父さんで、結構賑やかに混んでいました。
 
 米屋と酒屋で思い出すのは、電話の事です。
 この頃、東京の中心部には公衆電話が沢山有つたそうですが、郡部では駅の前にぽつんとある位でしたから、米屋と酒屋の電話を貸してもらい、電話を掛けたり受けたりしと云う、便宜を計つて貰いました。
 電話が有ると店の小僧さんが来てくれ、誰れそれさんから、何々と云う電話が有りましたとか、電話して下さいと云つて居ましたとか、連絡してくれると云う具合で、その都度、小僧さんはチップを貰えた様です。
 
 なにしろ電話一本引く費用で、小さな家が一軒建てられたと云う時代ですがら、商売に使う必要の無い一般家庭には、電話は有りませんでした。
 今は全然見かけませんが、電報と云うのがあつて、夜の夜中でも玄関の戸をドンドンと叩き、電報、電報と声を掛けて、受けとつて見ると大体が有難く無い、急ぎの用事で「ナントカさんの家に電報がきたんだとさ、お気の毒にねぇ」と云うような具合いでした。
 
 この当時、米、味噌、醤油、お酒の類は、全て帳面で月末払いが普通であり、米の1升買い、酒の五合買いなそは、一軒世帯を構えている限り、恥としていました。

 普通に暮らしている家は、通い帳が台所にぶら下げてあり、月末になるとオヤジさんが勘定を取りに来て、支払うと通い帳に、代済みの判を押して行きました。
 
 三カ月程度支払が滞ると、掛け売りをして呉れなくなり、二、三キロも離れた店で、現金買いをすることになり、こうなると貧乏丸出しで、恥ずかしい事とされていましたから、人目に付かないようにこつそりと、買い物をしなければならない様でした。
 何処にもウルセエのが居て「あすこの家じゃあお前さん米の一升買いをしてるんだとさァ」 と云う悪い評判は今も昔も伝わるのが早かつた様です。

 

   
公設市場の事やがて駅の近くの原っぱに、トタン張りの公設市場と云うのが出来て、一間から二間幅の区切りに、色々な店屋が入り、現在のスーパーの様な感じで、違うのは一コマに区切られた店屋がそれぞれ個人経営で有り、掛け売りをしないで、現金払いになりました。
 
 この市場には食糧品から各種雑貨類まで、生活用品が一通り揃つており、大変便利になつた訳です。

 昭和十年頃の話ですが、現金売りの公設市場は、従来からの掛け売りに比べて、利息相当分だけ安くなるので、古くからの店から、お客が離れ始めました。
 
 この市場で広いスペースを取つていたのは、八百屋と魚屋でした。

 公設市場に入ると、プーンと八百屋の漬物の匂いと生臭い魚屋の匂いがしていました。
 八百屋は四斗樽にいくつも、売れの残りの干からびた、大根やナス、蕪やキュウリ、それに萎れた白菜なぞを漬け込んで、沢庵、糠味噌、塩漬け、なぞにして売り出していました。、
 魚屋はガラスのケースーに氷を置いて、その上に熊笹の葉を並べ、マグロ、ヒラメ、鯛、すすきの様な上物を並べ、小型の青魚は、一皿十銭とか五銭の単位で、皿盛りにしてありました。
 
 今では殆ど見かけませんが、大きな笊に 「どじょう」がニョロニョロしており、頼むと割いてくれました。

 魚屋の店先には「蠅トリ紙」と云う、蝿が留るとベッタリ付いて仕舞うテープがぶら下がり、それにと蠅がビッシリと付いて、皿盛りの青魚には当然、蝿がむらがり、小僧さんが柄の長い渋うちわで、群がる蝿を追い払っておりました。
 今でしたら忽ち営業停止になるような汚らしさでありましたが、当時はどこの家にも蠅とネズミは付き物で、現在の様に蠅の一匹や二匹で大騒ぎする様な事は無く、ごく自然に蠅ハタキで追い払って居ました。
 
 この魚屋では、売れ残りのアジやサバを濃い塩水に漬けてから、腹を裂き戸板の枠に金網を張った上に並べ、店の裏で干しており、冬でも元気な蠅が居て、干物にたかっていたた位ですから、夏なぞは蠅がブンブン飛び回り、専属の小僧さんが長い柄を付けた渋団扇で追い払って、大いに努力しても、干している魚の表面は蠅だらけでした。
 
 肉屋の店には、鶏の羽をむしつたのが、三匹か四匹ブラ下げてあり、一枚十銭のトンカツとか一個二銭のコロツケなぞも売つて居ました。
 鶏肉と卵は、今と比べるとびっくりするほど高く、一羽、二円位した様に思いますし、卵は大が五銭、小三銭でした。
 当時の五銭は今の百円位に当たりますので、牛や豚の細切れに比べると、鶏肉は大変な御馳走でした。

 わが家のお袋は、「市場は嫌だねぇ、あんな物を食べると病気になつちゃうょ」なぞと云つていましたが、これは杞憂に過ぎず、市場製の干物を食べたり、漬物を食べても、昔の人は病気にはなりませんでした。

 
市場犬の事
 佐藤愛子先生と云う、絶世の美人であられた作家が、御健在で健筆を振るわれておりますが、先生の犬の飼育法は、人間の食べ残しを餌に宛がい、庭に放し飼いにされて居たそうです。
 我々の町内では犬の飼い主は複数の町内の人達で、縁の欠けたドンブリに、食べ残しのご飯を入れて置くとそれを食べて、町内をぶらぶらしており、夜は御稲荷様の床下で、過している犬達が居ました。
 この犬が色々と町内の役に立ち、日頃の恩義に報いてくれる訳ですが、公設市場にも通称市場犬と云うのが四匹ばかり居て、泥棒猫が魚やが売れ残りの青魚を干物にしている、魚を盗みに来るのを防いでいました。
 今の犬は猫より小さくて、野良猫を見るとチジミ上がり震えて居ますが、この市場犬は秋田犬の混血か何かで大きくて、魚のアラや骨、牛や豚の筋肉なぞを貰って育ち、餌を呉れる人に忠実で、野良猫なぞは噛み殺し、カラスを見ると飛び上がって襲撃すると云う勇ましさでありました。
 このワン公共は、市場のお客には吠えませんで、万引きをやつたりする悪い奴には、市場の人間かケシかければ、飛び掛つて逃がさない、忠犬でありました。
 
 この頃、野犬狩りのおじさんが、リヤカーに檻を積んでまわつて居ましたが、町内や市場で役に立つている犬は、適当に匿われて居たようです。

 近頃は犬も大切に飼われ、嘗ての勇ましきワンちやんを見られなくなりました。


改正道路の事 昭和10年以前の道路、新開地の田舎道は、一雨来ると大変にぬかるんで、長靴や足駄を履かないと、歩けませんでした。
 自動車なぞは滅多に通りませんが、通れば大変で泥を跳ね飛ばし、往来に面した家のガラス戸は泥だらけで、畑の真ん中の道路を走る自動車は、泥に嵌りエンコしていました。
 こんな時には筵を巻いた様な物をタイヤの下に敷き、脱出に苦労していましたが、日頃泥んこの被害を受けている人達も、気の毒がつて協力しました。

 昭和十二年頃になると、我が家の周りも家が立込んできまして、改正道路と云う名のコンクリートの道路が出来始め、曲りくねった旧道は直線的な舗装道路になり、道路を作るので立ち退きをさせられる家は、立ち退き料を貰い、喜んで家を移動しました。
 「何々の所はうめえことをやりゃがつた」と、立ち退いた家を羨ましがっていました。

 家の移動は至極簡単で、ジヤッキーで家を持ち上げ、丸太を並べた上に乗せ、家を移動するのを「曳き家」と云いまして、鳶職の仕事で町内の鳶頭が、ヨイトマケのおじさんや、おばさんがを使って仕事をしていました。
 エイヤコラと声を合せて家を曳き、新しい土台の上にそつと置き、多少ガタの来た所をトントンと大工叩いて、それで移動が終わったようです。
  
 よいとまけの小父さんは、ビックリするほど大きな弁当箱に、ご飯を一杯詰めて美味しそうに食べており、おばさんは大きな薬缶でお茶を配つていました。

 道路工事が始まると、トラツクがやってきて、あちこちに砂利の山を作り、それをシヤベルで道に撒き、石のローラーでならし、板で仕切りをして、鉄版の上でこねたコンクリートを流しておりました。

 この辺りが開け始めで、反当たり幾らと云う農地の売り買いから、坪当たり幾らと云う宅地の売り買いになつて、第一期の土地ブームが起きて居たのだそうです。
 土地の人が、「テイラ」とか「テッピ」「フスマ」と呼んでいた土地が、百坪程度に仕切られて、住宅地に変わり、学校が移つてきて、「碑文谷」が 「青山師範」 「柿の木坂」 が、「府立高校」、「九品仏前」が、「自由ケ丘」 なぞと云うハイカラな名前の駅になりまして、大分家が立て込み、平町辺りには百坪あまりの敷地にペンキ塗りの西洋館が建ち、何と自動車を持つて居る家がありました。
 
 今までは野戦重砲八連隊、近衛輜重連隊、近在農家の馬や牛が大小便垂れ流しで闊歩していた改正道路に、自転車や自動車が走り始めたのは、唱和十二年あたりからでした。
 
 
自動車の話
 自動車なぞと云うものは、余程の金持ちで無ければ買えないと思って居ました。
ところがですーーーー。
 老生の身内に医者が居りまして、ここの家で ダツトサン を買いました。
 当然、大変な評判で、「ノブさんとこぢやぁ、おめえ、自動車ァ買ったとょ」 と云う訳で、わざわざ自動車拝見にでかける始末でした。

 

ダツトサン



こんな形の自動車でした
 円タクと云うのも有りまして、東京内なら何処まで行きましても一円だつたと云いますが、近くならば三十銭位で乗れたそうです。
 東横線の学芸大学付近の郡部から渋谷、新宿に出るのは、大体が東京からお客を乗せて来た、帰り車ですから、交渉次第で五十銭から六十銭で行けました。
 東横線が渋谷まで十銭でしたから、五人乗れば釣り合いがとれました。
 安く乗るのにはコツがありまして、タクシーを停める役が値段の交渉をし、交渉が成立すると、物影からゾロゾロと同乗者が出て来る仕掛けで、一台の車に後の座席に三人、運転席の後ろに補助席が付いて居て、そこに二人座れましたから、五人乗れて電車賃より安上がりでした。

  

 自転車が今の自動車並みに普及したのは昭和十年頃だと思います。
 出職の人、大工、左官、植木屋、店屋の商品の配達、郊外の工場に通勤する人達が利用する以外に、自転車を利用し始めたのは、昭和十二年頃からの様に覚えています。
 今は女性が自転車に乗るのは当たり前ですが、この頃は女が自転車に乗ると、お転婆だと評判になりました。
自転車の事

我が家は斯うした街で、髪結いをやつて居ましたが、日本髪が流行らなくなり、老生より二十二歳年上の船乗りの兄が居たので、目黒と世田谷の境界の勤め人の住む、新興住宅地に引き越しました。
 前が勧業銀行のグラウンド、裏は麦畑、農道に沿つて生垣で囲まれた家が、六軒程並んでおり、新興住宅地と云えば格好が良いですが、何の事は無い野中の一軒家で、遊びに行くのにも御使いに行くにも、不便なので自転車を買いました。
 二十二インチの、薄緑の車体の、何ともほれぼれとする様な自転車で、大人の自転車より高かつた様に思います。
 
 この頃は工場から完成品を仕入れて売るのと、自転車屋さんが部品から組立てる自転車が有りまして、組み立ててもらう自転車の方が、品物が良いと云う事になつて居た様です。
 自転車の値段も今に比べると随分高くて、大人の自転車は三十円位していた様に記憶していますが、現在の価格に直すと、十五万円から二十万円程度になると思います。
 
 自転車は現在、駅の付近に放りだしてあり、時々、整理のトラツクが来て、片付けていますが、昔は大切にされておりました。
 自転車泥棒が大勢いて、鍵を掛けずチョツト買い物をしたり、枡酒なそを飲んでいる隙に盗まれるのです。
 
 駅の前とか、商店街の入り口、映画館の前には自転車預かり所があつて、一日では五銭、半日で三銭で預かる店が出来て、繁盛していました。。
  
 自転車が有ると大人なら自宅から、十二、三キロ程度、子供でも八キロ程度に行動半径が広がり、誠に便利でした。
 
 自転車の普及で、毎日仕事場の変わる出職の人達、つまり毎大工、左官、植木職、と云うような職業の人達は、受け持てる仕事場の範囲が広がりましたが、その為に自転車が無ければ、仕事に出られ無い事にもなりまして、自転車の有り無しは死活の問題になつてきました。
 
 豊田正子原作の「綴り方教室」と云う、東宝映画初期の秀作がありました。
 正子が高峰秀子、弟が小高まさる、母親が清川虹子、父親が徳川夢声と云う配役で、監督が山本嘉次郎でした。
 この映画で、夢声扮する正子の父親が自転車を盗まれ、やけ酒を飲んで家に帰り、女房と大ゲンカをする場面がありましたが、徳川夢声扮する父親の狂態に、浅草の観客は、しーんと静まり返り、有楽町のお客はゲラゲラと笑ったと、高見 順は 如何なる星の下に で書いて居ます。

 
駄菓子屋の事  駄菓子屋は、子供の社交場で有りました。
 店の前と脇に畳一畳敷ばかりの縁台が置いてあり、その上で写真メンや、ビー玉、べー独楽なぞで遊びましたが、ここのおじさんは駄菓子の卸をしているらしく、自転車に駄菓子を積んで出かけており、店番は当時、65か6のおじいさんで、店に続いている六畳にチャブ台を置き、いつでも居眠りをしておりました。
 多少の事は居眠りをしている振りをして、見逃して
居たのだと思います。




けん玉

駄菓子の箱

セルロイドのお面


おはじき びー玉  ベエ独楽

丸面色々
   
 ここでは学校で教え無い事を、色々と覚えました。
 新しく流行して来た、遊びでサイコロを使い、メンコの取り合いをするのが面白く、大いに愉快に遊んで居ましたら、おぎんちゃんチのおじさんに、拳骨で脳天を殴られ、「このガキ共はビンコロなんぞやつてやがって、お廻りに見つかったら、牢屋にブチこまれるぞ」とドヤされました。
 本式なサイコロ賭博のルールで、メンコの取り合いをしていたのです。
 
 このおじさんは鳶職で、おじさんチのおにいちゃんは、老生の兄貴の友達でしたから、自然おじさんには近親感がありまして、善悪取り混ぜて色々とお教えを受けました。
 猿回しが「カンタンは夢の枕」と云い、太鼓を叩くと、おサルが肘枕で寝るので、おじさんに意味を聞いたら、「昔、中国に邯鄲と云う、昼間から寝てばかりいる、有名な怠け者が居て、近所の人はおたげえに 邯鄲の様になっちゃあならねえと、戒め合ったもんだ、おめえも邯鄲の様になっちゃあいけねえぞ」教えてくれました。
 老生はこの説を小学生の間は信じておりました。
 おじさんは、この程度に物知りでありました。
  老生は、このおじさんに可愛がつて貰いましたので、学校ではとても教えて貰えない事なぞを色々と、真贋取り混ぜて教えて貰いました。              

 更にには、おぎんちゃん と云うおねえさんは、おじさんチの娘で、頗る美人であり町内のアイドルでした。
 この人が髪を結い綿にし、他所行きの黄八丈を着て、歩いている姿なぞは若かりし頃の玉三郎を見ている様で、老生はこのおねえちゃんと一緒に、林長二郎や坂東好太郎を観に行く光栄に浴し、且つ渋谷食堂でホットケーキなぞを御馳走になつたのであります。
 
 
  

ドサ芝居の町廻り 
ドサ芝居と巡回映画

大チャンバラ映画の写真
全勝キネマ 大河内 龍 主演

  小屋掛けの芝居や、街の寄席芝居が掛かると、町廻りがあり、人集めをして,口上を述べて割引券を呉れました。
 この芝居は節芝居と云いまして、義太夫の替わりに浪花節が入ると云う物で、浪花亭武蔵とか、天宙軒雲衛門なぞと云う、おかしな名前の浪花節語りが、舞台の上手で浪花節を唸るとそれに合わせて、役者が振りをするのです。
 現在はこの種の劇団は、ステレオプレイヤーの音量を出力最大にして、狭い小屋を振動させながら、オデデコ踊りなぞをやりますが、同じ様な事を浪花節でやつておりました。
 節芝居も結構人気があつて、お金とかお酒をこの一座に贈ると、ビラが貼り出されるので、宣伝になつたようです。
 
 その他に巡回映画と云うのがあり、弁士付きで古もの映画を持ちまわつておりました。
 これはとんでもない古者があつて、帝国キネマの百々之助とか松本田三郎なぞの映画を観た様に思います。
 
 学校の校庭で、只でやる巡回映画は、漫画を何本かと、誠に教育的な映画を見せてくれました。
 悪い子がお菓子ばかり食べて、歯を磨かない無いので、虫歯になり痛い目にあい、お医者さんに直して貰い、毎朝、毎晩、歯を磨く様になつて、美味しいお菓子が食べれる様になつたと云う様な、極めて教育的な映画で、甚だ面白くありませんでした。

紙芝居の事




  加太こうじの黄金バット
 紙芝居は三本立で、漫画、活劇、似顔紙芝居をやりました。
 拍子木を叩いて子供を十五、六人集め、棒飴や水飴を売り、紙芝居を三本やつて、一か所で二十分位で次の場所に移動していました。
 当時、場末の映画館の弁士が失業して、紙芝居に転向した人がいて、こう云う波芝居屋は説明が上手く、人気が有りました。
 加太こうじの黄金バットは赤マントを着て、黄金の剣を持ち、悪の権化ナゾー博士と云う悪人と戦うのであります。
 ナゾーの姦計に落ちて、苦悩する善人を黄金バットは次々と救い、「ウ、カカカカッ」と哄笑し、後は明日のお楽しみと云う事にな
ります。  
   
お正月の事  今は年が変わると、又、今年も一つ年を取るのかと憂鬱になります。
子供の頃の正月は、良かつたです。
            


    餅は町内の横丁で搗きました  

                   
おせちは買いました

 
御正月の支度    我が家の御歳暮は、三盆白の砂糖と決まっていました。
 
 砂糖は湿気さえ吸わなければ、箱を汚さずにおけばお廻ししなそが利き、大変重宝であつた様です。
 廻り、廻って、我が家でお送りしたものが、戻ってくる様な事は有りませんでしたが、お廻しが利く物は日持ちも良いので、便利だつたようです。
  これを配るのは小生の役で、子供の自転車で十軒ばかりに配り、配り先では心得ていて、お駄賃を呉れますので、それが五円ほどになりました。
 これは当然老生の所得になりますので、お年玉ななぞと云うものは、貰つた事はありません。 お歳暮廻りで頂いたお小遣いで、正月を過ごしておりました。

 お餅は何軒か共同で搗きましたが、小父さん達が交代でキネを振るい、小母さんがテアシをしたり、延し板でお供えを作つたり、のし餅にしたりして、最後の一臼はからみ餅やあんころ餅にし、皆で食べてお酒が出ることになつていました。
 世田谷にボロ市が立ちますが、ここの名物にカラミ餅とあんころ餅があります。
 ここで、カラミ餅を食べる度に昔の餅搗きの日を思い出します。
    

お正月は暮に頂いた゛お小遣を五銭で買いましたガマ口に入れて、心豊かに学校に行き、モーニングに威儀を正した校長先生の読み上げる教育勅語を聴き、安物の紅白の打ち物のお菓子を貰い、式が終わると大急ぎで映画を観に行きました。
  お正月にはおせち料理がつき物の中身は、笹の葉を引きいた上に小鯛を、四隅に紅白のかまぼこを置いて、海老と、はぜの佃煮が添えてあり、後は伊達巻に栗きんとんとか、竹の子やら昆布巻きなぞが入っていて、元日に一寸手を付けるだけで、飾り物同様で、三日に食べました。
 二日に年始のお客が来ると出しましたが、おせちに箸を付けるお客は居ませんで、然るべき年賀の品をお持ちのお客には、頂戴した品物に応じて、天麩羅そばから、うな重まで、を取り寄せて差し上げました。
 
 二日からはどこの店も開き、年始廻りが始まり、近所の店屋が手拭を持つて、年始にきました。
 正月の食べ物で、酷く高くなつたのは数の子で、昭和の十年頃は、干し数の子が笊一杯で十銭から二十銭で、これを水で戻すと、丼に山盛り三杯位になり、貧乏人の正月は勝の子を喰つて過ごす、と云はれておりました。
 従って我が家は、カツオ節で出汁と醤油を合わせた中に、数の子を漬けた、それをぽりぽりと食べて、お正月を過ごしましたが、これが誠に結構な味でした。
 
 只今の数の子は、ぼそぼそして味も素っ気もありませんで、値ばかり高くて旨い物では有りませんが、昔の数の子は安くてうまかったのです。
 
 今、安くなつたのは卵で、昔は大玉五銭、小玉が三銭、と云うかなりな値段で、五銭を現在の百円と考えて頂けば、大体の見当が付くと思われます。
 従って伊達巻は、高い食べ物でありました。
 
 お正月は外で遊ぶのが専らでしたが、我が家では年始のお客が下さるお年玉は、全て没収される事になつておりました。
 子供がウロチョロと家に居ると、年始のお客は嫌でもお年玉を出さない訳には行かず、迷惑をお掛けすると云うので、外でばかり遊びましたが、グズグズと云はれず、公認で外遊びが出来て有難い事でした。。
 

 
昔は万歳と獅子舞が何組もまわつて来ましたが、今は全然見かけません。
 庭の広いお宅や、大きなお店では、万歳や獅子舞を呼びこんで、ご祝儀を出して居たと云いますが、何処の家でも角口に立たれれば、御祝儀に十銭のおしねりを出して居たように思います。
 
  御正月の遊びは、凧上げとかコマ廻し、女の子は羽根つきで、凧を揚げる原っぱには事欠きませんでしたから、かなり大きな子も凧上げをやつて居ました。
 大きな子の凧には大抵仕掛けがしてあって、喧嘩凧になつており、その傍で近ずくと、するすると凧を寄せて来て、糸を絡ませて゛リガリカやられ糸目を切られて、飛ばされます。
 仕掛凧は糸目から三メーター位の所まで、麻糸を繋ぎニスに紙ヤスリの粉を混ぜて塗り、ガリガリにしてあるのです。
 
 喧嘩凧に狙われたら、急いで高度を落とし、逃げないと大枚十銭を投じた凧を飛ばされまして、落ちた所が肥料をまいたばかりの芝生なぞてすと、壱巻の終わりで、肥料塗れになつた凧を拾いにも行けず、大損害の泣き寝入りになりまして、情けない思いをしなければなりませんでした。
 
 独楽廻しは、ブチ噛ましと云うのと、リキと云うのがありました。
 前者は相手の独楽を目掛けて、自分の独楽をぶつけ、止めるだけで、リキはどちらが長くまわつているか、競うだけでして、全然面白く無いのであまり流行りませんでした。
 
初午の事

町のお稲荷さん1
  
 今でも東京の下町には、小さなお稲荷様が沢山あります。
 昔はこうしたお稲荷様で、初午の日、町内の子供が太鼓を叩きに行くと、甘酒と駄菓子をくれました。
 甘酒は自製で、旨いのと変な味のするのがあつて、旨い甘酒の出るお稲荷様は当然賑わいました。

町のお稲荷さん2
 
 
昔、我が町内のお稲荷様は、甘酒の旨いので有名でした。
 五銭相当の石衣と麦粉菓子、おこしなぞの駄菓子も、評判がよかつたです。
 甘酒はそれぞれ町内の有志が自製するのですが、当然、大変おいしい所とあまり旨くない所があつて、我が町内には甘酒は誠に結構なものでありました。
 我が町には甘酒作りの名人が居たのです。

 元来が目黒、世田谷はドブロクの名産地であり、渋谷、新宿の飲み屋に卸して歩いたと云う程に味が良く、巡査のオジサンもこれをこつそり愛用していたと聞きました。
 昔の江戸の地酒は不味いので有名で、美味い酒は灘の下り物ですが、運賃が掛かりますから当然その分だけ値段が高くなります。
 船で安全に大量の灘の酒を運び込むようになり、値段も下がりまして、東京近在の地酒はいよいよ売れ行きが悪くなり、近在のどぶろくや焼酎も駆逐される訳ですが、老生が子供の頃は自家用の甘酒やどぶろくが、結構幅を利かして居たようです。

 老生の祖父も、世田谷でドブロク作りに励んだと云う話を聞いていますが、むかしの近在の百姓は、米は金もうけの為の商品で、食事は三食の内一度は米飯を食べて、二食は雑穀、米はどぶろくや麹に加工して、江戸に売りに行つたと云います。
 酒税法が施行されても、どぶろくを作り続けて駐在の旦那も、近在で作られた焼酎、どぶろくを愛好されて居たようですから、近在の農家で旨い甘酒が作れて、当たり前だつたわけです。
 

 お節句の事
 三月のお節句は、白酒を御馳走してもらい、老生は感激して飲みすぎ、気持ちが悪くなつた記憶があります。
 今の白酒はどうなのか、飲んでいないので知らないが、昔のは酔いました。
 五月の御節句は、お雛様なぞ無くて、竹の棒に紙の鯉が三匹鴨居にぶる下がつているばかり、六個十銭の柏餅を食べるばかりでした。
 おふくろに、何故我が家にお雛様が無いのかと聞いたら、お前がみんな壊してしまつたとの事、男の子が生まれると、親類が御祝に送つてくれた筈なのです。


 御祭の事



 御祭の楽しみは里神楽を観る事と、屋台の買い食い、境内の外れに仮設された猿芝居なぞを観ることなぞでありました。
 御神楽はその神社の御祭神に纏わる物語で、最初おかめとひょつとこの色模様があつて、そこに須佐男の尊が現れ、村長から娘の気難を聴き、鬼退治に出かけ娘を助け出しめでたしめでたしと云う筋で、かなり草臥れた能衣装と、処々はげた面を付けて、熱演している神楽師を狙い山吹鉄砲を撃つたり、小屋掛けの猿芝居や、ドサ廻りの芝居、古物の巡回映画を見物するのに忙しかつたのです。

 今時の猿回しの猿は芸なしで、一メートルばかりの台に渡した棒を渡り、三段ばかりの梯子から飛び降りる、猿なら当たり前の事をやつて、芸なぞは何もやりませんが、笊を持つて銭を集める方は達者です。
 世の中には気前の良い人が居て、エテ公の笊に千円札を入れると、猿回しがすかさず、千円もらつたよーーと大声を張り上げると云う具合で、猿廻しもお粗末になつたものです。
 
 昔の猿は甚だ芸が達者で、中山安兵衛らしき拵えで、ボテ鬘に鉢巻をし、黒紋付きの尻を端折り赤鞘の刀を持つた猿が、鉢巻をしめて陣羽織を着た、中津川祐範の拵えの猿とチャンパラをやり、激闘数分で悪役の肩に赤い切れを掛けると、こやつがぱったりと倒れるのです。
 これほどの芸を見せて、木戸銭は五銭でした。

      
    
 
昭和十一年から十三年が、戦前で最も良い年でありました。
 良い時代は短くて世の中、これから悪くなるばかりでした

     
 ラジオが家庭に入り、浪花節が大流行で、よそのおじさんはラジオで、広沢虎造を聴きながら、一所になつて首を振って、ラジオは有りがてえな、虎造なんかは二両も出さなきゃ聴けねえぜと感に耐えておりました。
 
    支那事変の事

 
昭和十二年七月七日 盧溝橋事件が勃発し、同月二十八日中国との全面戦争に突入しました。 
 老生はこの頃十二歳の坊やでありましたが、新聞なぞを一通り読み、沈痛な表情をした近衛首相の写真なぞ眺めて、暴戻支那の庸懲は、毎度の事でおるから、マァ三か月位で方が着くかと思つていました。
 物知りの小父さん達も、せいぜい三か月かな・・・・長くて半年よ・・・程度に考えていました。

 新聞記事の記事は、暴支庸懲、頑迷支那断固討つべし、ラジオ、ニユース映画なぞも、我が正義の皇軍の勝った、勝ったを報道するばかり、三か月もすれば中国の殆ど全土を占領し、蒋介石が降伏すると云うような、根拠のない確信があつたようであります。
 
 この年の十一月には、蔣介石が南京から重慶に逃げ出し、十二月には南京が陥落しました。
 しかし、庶民の予想りに戦争は終わらず、世の中が少しおかしくなつてきました。
 
 我が家のおふくろが云いました。
 
 お前、この頃、物が変に上り出したよ。
 
 大方の物価がこの年を境にして、じりじりと上がり出し、庶民の暮らしに影響が出始めたのです。
 
 在郷軍人の小父さんや、愛国婦人会の小母さんが、戦死者の自宅前に整列して、白布で包んだ英霊を迎える姿が、ぽつぽつ見られるようになりました。
 
 我が家の隣の御主人が、郵便局にお勤めで、軍属として従軍して、戦病死されましたが、その時も町内を挙げての盛大なお葬式がありました。

 ご遺族がこつそりと大きな骨壺を明けて見たら、小さな遺骨が一片入れられていたそうです。

 
 戦争の話は別途、ゆつくりさせて下さい。
      この項を一応閉じます。



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