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駄菓子屋は、子供の社交場で有りました。
店の前と脇に畳一畳敷ばかりの縁台が置いてあり、その上で写真メンや、ビー玉、べー独楽なぞで遊びましたが、ここのおじさんは駄菓子の卸をしているらしく、自転車に駄菓子を積んで出かけており、店番は当時、65か6のおじいさんで、店に続いている六畳にチャブ台を置き、いつでも居眠りをしておりました。
多少の事は居眠りをしている振りをして、見逃して
居たのだと思います。
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ここでは学校で教え無い事を、色々と覚えました。
新しく流行して来た、遊びでサイコロを使い、メンコの取り合いをするのが面白く、大いに愉快に遊んで居ましたら、おぎんちゃんチのおじさんに、拳骨で脳天を殴られ、「このガキ共はビンコロなんぞやつてやがって、お廻りに見つかったら、牢屋にブチこまれるぞ」とドヤされました。
本式なサイコロ賭博のルールで、メンコの取り合いをしていたのです。
このおじさんは鳶職で、おじさんチのおにいちゃんは、老生の兄貴の友達でしたから、自然おじさんには近親感がありまして、善悪取り混ぜて色々とお教えを受けました。
猿回しが「カンタンは夢の枕」と云い、太鼓を叩くと、おサルが肘枕で寝るので、おじさんに意味を聞いたら、「昔、中国に邯鄲と云う、昼間から寝てばかりいる、有名な怠け者が居て、近所の人はおたげえに 邯鄲の様になっちゃあならねえと、戒め合ったもんだ、おめえも邯鄲の様になっちゃあいけねえぞ」教えてくれました。
老生はこの説を小学生の間は信じておりました。
おじさんは、この程度に物知りでありました。
老生は、このおじさんに可愛がつて貰いましたので、学校ではとても教えて貰えない事なぞを色々と、真贋取り混ぜて教えて貰いました。 |
更にには、おぎんちゃん と云うおねえさんは、おじさんチの娘で、頗る美人であり町内のアイドルでした。
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この人が髪を結い綿にし、他所行きの黄八丈を着て、歩いている姿なぞは若かりし頃の玉三郎を見ている様で、老生はこのおねえちゃんと一緒に、林長二郎や坂東好太郎を観に行く光栄に浴し、且つ渋谷食堂でホットケーキなぞを御馳走になつたのであります。
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ドサ芝居の町廻り
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大チャンバラ映画の写真
全勝キネマ 大河内 龍 主演
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小屋掛けの芝居や、街の寄席芝居が掛かると、町廻りがあり、人集めをして,口上を述べて割引券を呉れました。
この芝居は節芝居と云いまして、義太夫の替わりに浪花節が入ると云う物で、浪花亭武蔵とか、天宙軒雲衛門なぞと云う、おかしな名前の浪花節語りが、舞台の上手で浪花節を唸るとそれに合わせて、役者が振りをするのです。
現在はこの種の劇団は、ステレオプレイヤーの音量を出力最大にして、狭い小屋を振動させながら、オデデコ踊りなぞをやりますが、同じ様な事を浪花節でやつておりました。
節芝居も結構人気があつて、お金とかお酒をこの一座に贈ると、ビラが貼り出されるので、宣伝になつたようです。
その他に巡回映画と云うのがあり、弁士付きで古もの映画を持ちまわつておりました。
これはとんでもない古者があつて、帝国キネマの百々之助とか松本田三郎なぞの映画を観た様に思います。
学校の校庭で、只でやる巡回映画は、漫画を何本かと、誠に教育的な映画を見せてくれました。
悪い子がお菓子ばかり食べて、歯を磨かない無いので、虫歯になり痛い目にあい、お医者さんに直して貰い、毎朝、毎晩、歯を磨く様になつて、美味しいお菓子が食べれる様になつたと云う様な、極めて教育的な映画で、甚だ面白くありませんでした。
加太こうじの黄金バット
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紙芝居は三本立で、漫画、活劇、似顔紙芝居をやりました。
拍子木を叩いて子供を十五、六人集め、棒飴や水飴を売り、紙芝居を三本やつて、一か所で二十分位で次の場所に移動していました。
当時、場末の映画館の弁士が失業して、紙芝居に転向した人がいて、こう云う波芝居屋は説明が上手く、人気が有りました。
加太こうじの黄金バットは赤マントを着て、黄金の剣を持ち、悪の権化ナゾー博士と云う悪人と戦うのであります。
ナゾーの姦計に落ちて、苦悩する善人を黄金バットは次々と救い、「ウ、カカカカッ」と哄笑し、後は明日のお楽しみと云う事になります。 |
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今は年が変わると、又、今年も一つ年を取るのかと憂鬱になります。
子供の頃の正月は、良かつたです。 |
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我が家の御歳暮は、三盆白の砂糖と決まっていました。
砂糖は湿気さえ吸わなければ、箱を汚さずにおけばお廻ししなそが利き、大変重宝であつた様です。
廻り、廻って、我が家でお送りしたものが、戻ってくる様な事は有りませんでしたが、お廻しが利く物は日持ちも良いので、便利だつたようです。 |
これを配るのは小生の役で、子供の自転車で十軒ばかりに配り、配り先では心得ていて、お駄賃を呉れますので、それが五円ほどになりました。
これは当然老生の所得になりますので、お年玉ななぞと云うものは、貰つた事はありません。 お歳暮廻りで頂いたお小遣いで、正月を過ごしておりました。
お餅は何軒か共同で搗きましたが、小父さん達が交代でキネを振るい、小母さんがテアシをしたり、延し板でお供えを作つたり、のし餅にしたりして、最後の一臼はからみ餅やあんころ餅にし、皆で食べてお酒が出ることになつていました。
世田谷にボロ市が立ちますが、ここの名物にカラミ餅とあんころ餅があります。
ここで、カラミ餅を食べる度に昔の餅搗きの日を思い出します。
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お正月は暮に頂いた゛お小遣を五銭で買いましたガマ口に入れて、心豊かに学校に行き、モーニングに威儀を正した校長先生の読み上げる教育勅語を聴き、安物の紅白の打ち物のお菓子を貰い、式が終わると大急ぎで映画を観に行きました。
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お正月にはおせち料理がつき物の中身は、笹の葉を引きいた上に小鯛を、四隅に紅白のかまぼこを置いて、海老と、はぜの佃煮が添えてあり、後は伊達巻に栗きんとんとか、竹の子やら昆布巻きなぞが入っていて、元日に一寸手を付けるだけで、飾り物同様で、三日に食べました。
二日に年始のお客が来ると出しましたが、おせちに箸を付けるお客は居ませんで、然るべき年賀の品をお持ちのお客には、頂戴した品物に応じて、天麩羅そばから、うな重まで、を取り寄せて差し上げました。
二日からはどこの店も開き、年始廻りが始まり、近所の店屋が手拭を持つて、年始にきました。
正月の食べ物で、酷く高くなつたのは数の子で、昭和の十年頃は、干し数の子が笊一杯で十銭から二十銭で、これを水で戻すと、丼に山盛り三杯位になり、貧乏人の正月は勝の子を喰つて過ごす、と云はれておりました。
従って我が家は、カツオ節で出汁と醤油を合わせた中に、数の子を漬けた、それをぽりぽりと食べて、お正月を過ごしましたが、これが誠に結構な味でした。
只今の数の子は、ぼそぼそして味も素っ気もありませんで、値ばかり高くて旨い物では有りませんが、昔の数の子は安くてうまかったのです。
今、安くなつたのは卵で、昔は大玉五銭、小玉が三銭、と云うかなりな値段で、五銭を現在の百円と考えて頂けば、大体の見当が付くと思われます。
従って伊達巻は、高い食べ物でありました。
お正月は外で遊ぶのが専らでしたが、我が家では年始のお客が下さるお年玉は、全て没収される事になつておりました。
子供がウロチョロと家に居ると、年始のお客は嫌でもお年玉を出さない訳には行かず、迷惑をお掛けすると云うので、外でばかり遊びましたが、グズグズと云はれず、公認で外遊びが出来て有難い事でした。。
昔は万歳と獅子舞が何組もまわつて来ましたが、今は全然見かけません。
庭の広いお宅や、大きなお店では、万歳や獅子舞を呼びこんで、ご祝儀を出して居たと云いますが、何処の家でも角口に立たれれば、御祝儀に十銭のおしねりを出して居たように思います。
御正月の遊びは、凧上げとかコマ廻し、女の子は羽根つきで、凧を揚げる原っぱには事欠きませんでしたから、かなり大きな子も凧上げをやつて居ました。
大きな子の凧には大抵仕掛けがしてあって、喧嘩凧になつており、その傍で近ずくと、するすると凧を寄せて来て、糸を絡ませて゛リガリカやられ糸目を切られて、飛ばされます。
仕掛凧は糸目から三メーター位の所まで、麻糸を繋ぎニスに紙ヤスリの粉を混ぜて塗り、ガリガリにしてあるのです。
喧嘩凧に狙われたら、急いで高度を落とし、逃げないと大枚十銭を投じた凧を飛ばされまして、落ちた所が肥料をまいたばかりの芝生なぞてすと、壱巻の終わりで、肥料塗れになつた凧を拾いにも行けず、大損害の泣き寝入りになりまして、情けない思いをしなければなりませんでした。
独楽廻しは、ブチ噛ましと云うのと、リキと云うのがありました。
前者は相手の独楽を目掛けて、自分の独楽をぶつけ、止めるだけで、リキはどちらが長くまわつているか、競うだけでして、全然面白く無いのであまり流行りませんでした。 |
町のお稲荷さん1
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今でも東京の下町には、小さなお稲荷様が沢山あります。 昔はこうしたお稲荷様で、初午の日、町内の子供が太鼓を叩きに行くと、甘酒と駄菓子をくれました。
甘酒は自製で、旨いのと変な味のするのがあつて、旨い甘酒の出るお稲荷様は当然賑わいました。
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町のお稲荷さん2 |
昔、我が町内のお稲荷様は、甘酒の旨いので有名でした。
五銭相当の石衣と麦粉菓子、おこしなぞの駄菓子も、評判がよかつたです。
甘酒はそれぞれ町内の有志が自製するのですが、当然、大変おいしい所とあまり旨くない所があつて、我が町内には甘酒は誠に結構なものでありました。
我が町には甘酒作りの名人が居たのです。
元来が目黒、世田谷はドブロクの名産地であり、渋谷、新宿の飲み屋に卸して歩いたと云う程に味が良く、巡査のオジサンもこれをこつそり愛用していたと聞きました。
昔の江戸の地酒は不味いので有名で、美味い酒は灘の下り物ですが、運賃が掛かりますから当然その分だけ値段が高くなります。
船で安全に大量の灘の酒を運び込むようになり、値段も下がりまして、東京近在の地酒はいよいよ売れ行きが悪くなり、近在のどぶろくや焼酎も駆逐される訳ですが、老生が子供の頃は自家用の甘酒やどぶろくが、結構幅を利かして居たようです。
老生の祖父も、世田谷でドブロク作りに励んだと云う話を聞いていますが、むかしの近在の百姓は、米は金もうけの為の商品で、食事は三食の内一度は米飯を食べて、二食は雑穀、米はどぶろくや麹に加工して、江戸に売りに行つたと云います。
酒税法が施行されても、どぶろくを作り続けて駐在の旦那も、近在で作られた焼酎、どぶろくを愛好されて居たようですから、近在の農家で旨い甘酒が作れて、当たり前だつたわけです。
三月のお節句は、白酒を御馳走してもらい、老生は感激して飲みすぎ、気持ちが悪くなつた記憶があります。 今の白酒はどうなのか、飲んでいないので知らないが、昔のは酔いました。
五月の御節句は、お雛様なぞ無くて、竹の棒に紙の鯉が三匹鴨居にぶる下がつているばかり、六個十銭の柏餅を食べるばかりでした。
おふくろに、何故我が家にお雛様が無いのかと聞いたら、お前がみんな壊してしまつたとの事、男の子が生まれると、親類が御祝に送つてくれた筈なのです。
御祭の楽しみは里神楽を観る事と、屋台の買い食い、境内の外れに仮設された猿芝居なぞを観ることなぞでありました。
御神楽はその神社の御祭神に纏わる物語で、最初おかめとひょつとこの色模様があつて、そこに須佐男の尊が現れ、村長から娘の気難を聴き、鬼退治に出かけ娘を助け出しめでたしめでたしと云う筋で、かなり草臥れた能衣装と、処々はげた面を付けて、熱演している神楽師を狙い山吹鉄砲を撃つたり、小屋掛けの猿芝居や、ドサ廻りの芝居、古物の巡回映画を見物するのに忙しかつたのです。
今時の猿回しの猿は芸なしで、一メートルばかりの台に渡した棒を渡り、三段ばかりの梯子から飛び降りる、猿なら当たり前の事をやつて、芸なぞは何もやりませんが、笊を持つて銭を集める方は達者です。
世の中には気前の良い人が居て、エテ公の笊に千円札を入れると、猿回しがすかさず、千円もらつたよーーと大声を張り上げると云う具合で、猿廻しもお粗末になつたものです。
昔の猿は甚だ芸が達者で、中山安兵衛らしき拵えで、ボテ鬘に鉢巻をし、黒紋付きの尻を端折り赤鞘の刀を持つた猿が、鉢巻をしめて陣羽織を着た、中津川祐範の拵えの猿とチャンパラをやり、激闘数分で悪役の肩に赤い切れを掛けると、こやつがぱったりと倒れるのです。
これほどの芸を見せて、木戸銭は五銭でした。
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