我が家が関東大震災で丸焼けになり、郡部の目黒に引き移つた時の苦心談を、おふくろがしゃべり始めると、これが延々と続くので辟易致しました。
なにしろ、十七、八年まえの昔ばなしで、とんだ「熊谷陣屋」のセリフでは有りませんが、十八年は一昔、夢であつたか、とまぜっかいして居ましたが、今、老生が六十年から六十五年前の戦時中の話を、つい昨日の出来事の様に話しますので、我が家の者どもが辟易している様です。
しかし、大東亜戦争で酷い目に逢い、戦後の混乱期に食うものも食わず [喰いたくても何も無かつた] この国の再建に努力し、或いは努力させられて、今日の日本国を築いたのは、我が田に水を引く様ですが、後期高齢者でありまして、この時期に生まれ合わせ、散々と苦労を致しました。
後期高齢者の生き残りの老いの繰り言は、 皇紀二千六百年 昭和十五年、西暦1940年前後 から始まります。
戦争の影響が出て庶民の暮らしに影響し始めたのは、昭和十四年の中頃からで、生活必需品の値上がりが続き、商店に品切れが頻発して、昭和十五年に入ると、配給制度が実施され、切符が無いと買い物が出来ないと云う状態になりました。
先ず甘いお菓子の類が姿を消し、人工甘味料なる物が登場、これがサッカリンとかズルチンと称するもので、甘いような苦いようなおかしな味で、これを舐めるとボケるとか云う事でした。
コーヒーは無くなり、ミルクホールなぞては麦湯の濃いような代用コーヒーを飲ませ様になりましたが、不思議な事に紅茶は戦争末期まで買えました。
お酒は合成酒と云う、アルコールと何かを混ぜた酒が、出回りましたがこれも行列で、ある数量だけ売ると、店屋は無慈悲にもさっさと店を閉め、これから後が本当の商売で、此処では物々交換が主流になり、酒屋は米とたばこを欲しがり、米屋は酒とたばこを欲しがり、タバコやは米とお酒を欲しがる、と云う次第であり、米屋、酒屋、たばこ屋は物に不自由をしなかつた様で、庶民にとつては、何とも羨ましい次第でしたが、まだこの頃はお金と物とを出せば、何とか日々の暮らしが成り立つて居りました。
贅沢は敵だーーー、と云う合言葉が有りましたが、売り惜しみ配給品のゴマカシをやる奴は国賊だーーー、云う合言葉は有りませんで、庶民は只管に米屋のオヤジ、タバコやのババア、酒屋のジジイ、の鼻息をうかがい、日々の暮らしを立てる算段を致しておりました。
或る日、薬屋に行列が出来まして、何を売るのかと思いましたら、養命酒とかマムシ酒を売ると云う話で、これが忽ち売り切れになる始末でした。
運良く養命酒を手に入れたオジサンは、往来でグビグビ飲み、ウ、ウ、甘い酒だと感に堪えた声を挙げおりました。
こうした状態が、顕著且つ決定的になつたのは、皇紀二千六百年 昭和十六年 十一月十日 大祝典の後でありました。
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お酒が特別に配給され、観兵式があつたり、観艦式があつたり、時の総理大臣近衛文麿が各界名士を招待し、皇居外苑で盛大な式典があつて、天皇より勅語が下され、例の如く花電車と提灯行列があり、式典が終わりました。
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あるおじさん曰くです。
チットばかりの酒を配って、何を祝えつて云うんだ。
さぁ働こうだと・・・・こちとらァ毎日働きづくめだ。
このおじさん多少悪酔いするお神酒が入つていたようですが、正直云いまして、祝ひ終わった気分は全然無く、誰が作つたのか、上手い替え歌がありまして、これを子供達が歌うのを聴き、全く同感だと思いました。
金鵄上がって十五銭、 栄えある光三十銭、 今こそ上がるたばこの値、
紀元は二千六百年 、ああ一億の金が減る。
当時の代表銘柄、バットは七銭 光は十銭 朝日は十五銭、チエリー十二銭 が、僅か一年半で倍から三倍に跳ね上がりました。
色々な品物の公定価額が上がり、闇値は更に公定価格の数倍と云う訳で、この辺りから諸物価が急激に高騰して行きました。
昭和十六年、皇紀二千六百年より、庶民の暮らしは窮迫し、本格的な 「世の中は、星と碇と、闇と顔] と云う時代に突入して行きます。
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昭和十六年四月から、お米、味噌、醤油、砂糖、お酒、たばこ、マッチなぞが配給と云う事になりました。
お米は成人男子一人当たり二合半、独身で食堂を利用している者は、外食券と称する
切符を出さないと、食堂のご飯が食べられなくなりました。
たばこは金鵄が一日五本、二日に一箱十本の配給、マッチが五日で小箱一箱、こうした配給物は、月に三回位に分けて国民に支給されました。
徳川様の昔から、一人扶持は玄米五合、白米で四合五勺と云う事になつていましたが、昭和の御聖代に至り、半減しました。
徳川様の時代は、有難い時代でした。
朝は納豆とおみおつけ、昼は塩引きの魚か佃煮に沢庵、夜は芝浜の魚に野菜の煮つけで、ご飯は三杯飯でありました。
居候でも、三杯飯が食べられたのであります。
有難い昭和の御聖代に至り、配給米が二合五勺となつたのであります。
これをご飯に炊き上げると、ドカ弁と称する大型の弁当箱一杯程度に収まって仕舞い、力技をする小父さんの一食分の量でありました。
時の首相東條大将閣下が、庶民のゴミ箱を開けても、捨てる物が無いので誠に清潔でありました。
偶には配給指定外で、多少の食料品がありました。
これが売り出されると聴くや、忽ちに行列が出来て、煮干し、大根の切干、乾燥さつま芋、昆布や、わかめやひじき、なぞのを買うのに大変な騒ぎをしました。
たばこ屋にごろごろしていた煙管が、忽ち売り切れました。
煙管は本来、キザミタバコを吸う道具でしたが、一日五本の配給ともなれば、一本の巻煙草を四つにも五つにも千切り、煙管に詰めて吸う訳で、煙管が喫煙具として、俄然復活したのであります。
お酒は成年男子一人当たり二合とか三合とか、配給が有りましたが、だんだんとおかしな味になり、酒屋の野郎水を割りやあがつてと、酒飲みの小父さんは憤慨しきりでしたが、確かに水で増量し誤魔化している様でありました。
お米やさんの店は、米穀類配給所、酒屋さんは酒類配給所と云う事になり、去年揉み手をして愛想のよかつたおやじさんが、今年は無愛想な面付きとなり、米屋のおやじは毎晩晩酌を二合やつて居るとか、酒屋のおやじはすき焼きで三杯飯を食べて居るとか、色々と、見てきた様な悪い噂がありました。
米、味噌、醤油、食用油、蔬菜類、嗜好品の全てと、衣料品なぞが配給しなりまして、お金の他に配給券が無いと手に入らなくなりました。
老生も勤めに出る事になつて、学生服では具合が悪いのと、今に生地が無くなり洋服が買えなくなると云うので、国民服の甲号と乙号と云うのを作る事になりましたが、洋服屋で見せられた 生地はヒョロビリ然としたオール合成繊維製で、オフクロが苦情を言うと、それならお断り、他所を当たってくれと云う、ケンもホロロの言い草でありました。
おふくろは当時、職業軍人として、世田谷の野戦重砲八連隊で、中隊長を勤めていた従兄に、軍隊タバコ ほまれ を二十個包みを貰い受け、それを洋服屋に持ってもつて行きましたら、ちやんとしたサージで、二着作つて呉れました。
衣料切符が有りましても、然るべき賄賂を持つて行かないと、ちゃんとした物は買えないと云う時代になつて来ました。
国民服甲号 |
国民服と云うのは、祝儀、不祝儀、階級章を付ければ軍服にもなると云う、誠に便利な洋服で、ゲートルを巻いて軍事教練にも使えますので、徴兵されても軍隊で軍服を支給しないで済むと云う、お国の為には都合のよい洋服で、甲号は海軍の軍服に、乙号は陸軍の軍服に似せてあした。
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国民服乙号
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従兄は「隊に行くと大した者」だつたそうで、たばこや食べ物は兵隊さんが、こっそりと運んで来るとかで、この時期、甚だ優雅に暮らしておりました。
おふくろは時々ここの家に出かけ、主に兵隊タバコ ほまれ を手にいれ、食糧品と交換していました。
ささやかな星でも、結構な余禄があつたようです。
米屋も酒屋も食堂も、煙草を持って行くと、闇で多少の融通は利きまして、煙草何本かで、米を何合とか、酒を何合とか、云う相場が立つており、たばこは通貨代わりでありました。
国民が食うや食わずで、身の廻りの必需品が無くなり、こんな状態でアメリカと戦争になつたら、とても勝てる訳がないから、アメリカ相手の戦争は無いだろうと云う、巷の評論家の通説がありまして、その積もりで居りましたが、昭和16年12月8日、突如として真珠湾を攻撃し、アメリカの太平洋艦隊の大部分を撃沈したと云う、信じ難い勇ましいニュースが流され、遂に戦争になつたと云う事を知らされました。
正直な所、アメリカと本当に戦争になるとは、殆どの国民は思って居なかったと思います。
アメリカは遠くて近い国でした。
普通の市民が自動車を乗り回し、ステーキを食べていることを知っていました。
我々は木炭バスに乗り、配給の青魚かスケソウタラを蛋白源にしていました。
南方の資源が確保できれば、油槽船や貨物船で物資が、本土に続々と運び込まれるなぞと云う話は、とても信じられませんでしたが、国民総決起大会で参謀肩章を吊るした偉い軍人が、南方制圧の暁には、国民生活は画期的に向上し、日本の工業生産力はアメリカに匹敵する実力を備えるで有ろうと、真面目な顔で一席ブッテいました。
12月8日は、日本の苦悩が始まった日として、忘れてはならない日だと思います。
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何故アメリカ、イギリス、と戦争になつたのかに就いては、諸説有りまして、老生如きが何彼という事は有りません。
喧嘩を売つたのか、買わされたのか、後年に至り色々とそれらしき話を聴かされますが、下世話で云うならば、日本をのさばらせて置くと、中国やら東南アジアで経済的地盤を失う事を恐れた国が、わが国を痛い目に合わせてやろうと云うので、売られた喧嘩の様な気がします。
中国と名誉ある講和をし、日独伊三国同盟の破棄し、それと引き換えに満州国を正式な国家として、国際間で認めて貰うと云う程度の譲歩では、多分、戦争を避ける事は出来ない状態で有ったようです。
そこを何とかのらりくらりと耐えて、事態の変化を待つと云うような、政治家がこの時代に居なかった訳ででは有りません。
終始アメリカとの戦争に批判的だつた、米内光政海軍大将は、自分の意見を正直に云えば、直ちに暗殺されただろうと云つていますが、日米間の戦争を回避する為には、中国に於ける利権を相当程度、放棄しなければならないと考えて居た様です。
或る小父さんは云いました。
「支那だけで手一杯な所でょ、アメリカと戦争なんかできる訳がねえょ」とーーー。
多くの政治家も、戦争は出来うる限り避けたいと思っていたのだと思います。
恐らく、開戦時の首相だつた東條英機陸軍大将も、心の底では戦争を避けたいと思ってていたと考えますが、兎も角、緒戦で圧倒的に勝利し、アメリカに厭戦気分の起きた所で講和すると云う、虫の良い見通しでこの戦争を始め、予想以上の戦果に酔い、占領地よりの資源で、戦争の継続が可能と考える様になつたのだと思います。
もしも、天皇がこの時点で、開戦に反対と云う意思を示されても、それは無視され、天皇を囲む一部の重臣の陰謀を排除すると云う名目で、重臣と称される人々は軍部によつて暗殺されたと思います。
軍の首脳部は、中堅将校の暴走を抑えられず、実質的には、参謀本部と軍令部の中堅が、国家の動向を支配していたようです。
そして、この連中が戦争の方向に、日本を引き込んで行き、約二百四十万に近い兵士と五十万近い民間人の生命を奪う結果になりました。
軍令部や参謀本部の課長連中は、緒戦で米国に決定な一打を与え、米国民の厭戦気分を引き出し、適当時期に講和をする事で、戦争を終結する積もりだったのが、あまりにも調子よく緒戦に勝ち、正気を失つて引き時を見失って、思わず深みにはまり込んだのだと思います。
開戦直後、真珠湾攻撃から、マレー沖海戦、シンガポールの攻略、比島の攻略迄、信じられないほどの戦果が挙がり、戦争の前途にいささかの明るさが見え、これでアメリカ同様な資源大国となつたのだから、これからは南方からの資源を活用して、長期の戦闘耐え得ると云うような楽観論も台頭し、生活物資も追々と南方より入り、国民生活も楽になる様な楽館論が新聞紙を賑わす様になりました。
一億総動員と称して、隣組と云うのが出来、町会の下部組織だとかで、町内会の会長なぞには、町内の有力者が任命されたようです。
こうして偉い人が大勢出来まして、町会長なぞは大変な権限を持ち、区役所の届けに矢鱈と町会長の証明と印鑑が要るようになりました。
隣組の歌が出来まして、ご紹介して置きます。
とんとんとんからりと、隣組
あれこれ相談、味噌醤油
ご飯の炊き方垣根越し
教えられたり、教えたり。
配給物の分配なぞは隣組単位でやつて、隣組の常会と云うのがかなり頻繁に開かれ、欠席をすると配給物で割をくわされ、叱責を加えられる始末でありました。
大政翼賛会と云うのが出来て、隣組の常会で衆議院議員の選挙に当たり、大政翼賛会推薦候補者以外には、投票をしてはいけない、翼賛会の推薦候補以外は、国家の為にならない人物であるから、決して投票しないようにと云う指示があつて、公然と選挙違反が行われていましたが、こうした選挙違反は国策であり、大政翼賛会推薦以外の立候補者は、選挙違反だで矢鱈に逮捕されました。
昭和十七年四月十八日土曜日、お昼頃空襲警報のサイレンが鳴り、続いて、ポン、ポン、と気の抜けた花火の様な音が聞こえて、防空演習ではないかと思っていました。
所が夕刻になつて、東部防衛司令部から発表が有り、「小癪なる敵機、京浜地区に侵入、盲爆を加えるも、我が方の損害軽微、来襲せる敵機九機を撃墜せり」と云う様な発表がありまして、空襲があつたのだと知りました。
後日の記録によると一機も撃墜出来ず、中国の日本軍占領地区に不時着した二機の乗員を捕虜にして、無差別爆撃の罪で士官は死刑にしたと云う事です。
東京の被害は、東京劇場の近くのビルに損害があつたそうで、この空襲による民間人の犠牲は死亡者六十数人と聞いて居ます。
この空襲の後、早速防空演習がありまして、小学校の校庭に集まり、査察に見えた陸軍少佐殿の講演があつて、本物の焼夷弾を使った演習がありました。
今までの防空演習なるものは、金盥をガンガンと叩き、赤い布を付けた竹筒を放り出して、焼夷弾落下なぞと叫び、竹竿の先に縄を付けたハタキの化け物の様なもので竹筒を叩き、消火なぞと叫び、地面に印を付けて、バケツリレーの水を適当に掛け、板塀に赤い印を付けて、これに水を掛けて消火なぞと喚き、これで演習は終わりで、町会長を囲んで町内会幹部一同が、疲れ休めに一杯やると云う様な、和気藹藹たるものでしたが、この防空演習は今までと、少し様子が違ってきました。
少佐殿の査閲の下で行われた防空演習は、油脂焼夷弾とエレクトロン焼夷弾が使用され、火を撒き散らし炎を吹き上げる焼夷弾を初めて見ました。
これを何とか消し止めて、訓練が終わりますと、少佐殿の訓示があり、焼夷弾攻撃には初期消火が大事であつて、迅速果敢に処置すれば決して、恐れるに当らないと云う様な御話があつて、この訓練を終えたのです。
焼夷弾て凄いわねぇーーと小母さん達が云つていましたが、その時は三年後に、この凄い奴を、雨霰の如く落とされるとは想像して居なかつたと思います。
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昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦があつて、今まで負け知らずの帝国海軍が米国太平洋艦隊と戦い、惨敗しました。
大本営陸海軍部の発表は、我が方の損害は軽微で、敵艦隊の空母二隻撃沈を初めとして、多大な損害を与えたと云う報道が、勇ましい軍艦マーチと共に大嘘の戦果発表をしました。
国民はこの報道を信じ、米海軍が南太平洋から姿を消すのは、時間の問題だと狂喜しましたが、実はこの報道は、大嘘で日本海軍の惨敗は隠蔽され、これ以降の戦果発表は全てウソばかりと云う事になりました。
この敗戦の実情は、海軍部内で握り潰され、時の総理大臣東條英樹大将にも報告されなかつたと云う話が有りますが、この海戦の戦死者の人数だけ云うと、日本戦死者三千名余、アメリカのそれは三十人程度であつたそうです。
山本五十六元帥の伝記では、阿川弘之の「山本五十六」が有名ですが、この書によりますと、ミッドウェー作戦開始の日、元帥は激しい腹痛で、命令を発すると長官室に戻り苦痛に耐えていたそうですが、敗戦の報に接して、南雲艦隊の決断の鈍さ、戦闘指揮の拙劣さを責める、連合艦隊参謀連中に「南雲を責めるなよ」と一言、ポッンと云われ、再び長官室に戻ったと云う事です。
山本長官が軍令部の危惧を押し切って、強力に推進したと云う、この作戦の失敗で最も精神的打撃を受けたのは、山本連合艦隊司令長官であつたとされています。
以降、海軍は苦しい戦いを続ける事になり、この敗北を機会に、山本元帥は危険を承知で、各島嶼に点在する海軍航空隊を視察して、所属の各部隊を激励をし、士気の高揚を図りますが、ラバウル航空隊を視察しての帰途、元帥の搭乗した一式陸攻は、米軍のP-38戦闘機の待伏せに会い、元帥の搭乗機は撃墜されます。
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山本連合艦隊司令長官
写真が変わります
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山本五十六連合艦隊司令長官が戦死さたと云う報道に接して、戦争に負けると云う予感がしました。
厳粛な国葬が執り行われ、ニュース映画の観客から、すすり泣きの声が漏れ、座席の観客は総立ちになり、スクリーンに向かい最敬礼をしました。
昭和十八年六月五日が国葬の日でした。
この日を境に国民生活が、急速に苦しくなつて来た様に思われ、この戦争に勝ち目が無いと云う実感が湧いて来ました。
一式陸攻
元帥搭乗の同形機
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P-38戦闘機、元帥機を撃 墜したのと同型戦闘機
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山本五十六元帥の後、連合艦隊司令長官には、古賀峯一大将が就任されました。
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昭和二十年八月一日、老生は静岡県磐田の東部情報連隊に入営しました。 |
ラジオロケーターのアンテナが無残に壊れ、兵舎も破壊されて居るようで、松林の中の倉庫の様な所に入れられ、八月三日転属を命じられ、八王子駅につきましたが、これから炎天下トボトボ歩いて、飲まず食わずで八高線の金子駅に付き、やつと水を飲ませて貰い、更に一時間程歩いた処の小学校に収容されました。
そこで半袖シャツに二等兵の肩章を付け、軍袴と巻脚絆、かなり傷んだ靴と、シャベルを支給され、孟宗竹で作つた汁椀と飯椀で、ヒネ胡瓜の実が入つた味噌汁に有りつきました。
食後、上等兵が 使役集合 と声を掛けましたので、老生は直ちに ハイ と答えて飛び出しました。
食缶 つまり 四斗樽四個と竹筒の食器五十ばかり をリヤカーに積み、飛行場の近くにあるお寺の境内に行くと、そこが炊き出し場でありました。
帰り道で農家により、トマトなぞを齧り麦茶なそを御馳走になり、新参者の老生が費用を支払い、三食の食事当番を務め、足を怪我して身動き出来ない上等兵殿の介護に勤め、お陰で塹壕掘りには出ず、点呼後に気合を入れられる事も無く、八月十五日を迎えました。
前日、日本はボッダム宣言を受け入れたらしいと云う話が伝わり、昼飯抜きで飛行場に整列しました。
まさかとは思いましたが、此の日は朝から定期便と称していた、艦載機による飛行場攻撃が無く、おかしいとは思っていましたが、戦争に負けたのならば、捕虜になるだろうが、命は助かる見込みが有るから、それでも良いと思いました。
暑い日でした。
やがて「君が代」が微かに聞こえ、玉音が始まりましたが、全然聴き取れず、そのうちに最前列の連中が泣きはじめ、帝国が ボツダム宣言 を受諾、つまり連合国に無条件降伏をしたのだと判りました。
正直に云いまして、ホツとしました。
放送がおわると、部隊長の訓示がありました。
「今後は、部隊命令を遵守し、血気にはやり軽挙亡動を慎む事」と云う趣旨でした。
戦争には負けましたが、命だけは助かったのです。
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