昭和二十年八月十五日、終戦の日、所沢の飛行場に陸軍の最新鋭機が続々と集結し、我が帝国陸軍もこんなに飛行機を持つて居たのかと、ビックリしました。 集まってきた連中は、この基地から飛び立ち、房総沖の米国太平洋艦隊に特攻攻撃を掛けると息まき、部隊長の説得で十六日の早朝にそれぞれの基地に引き揚げたそうです。 十七日からは、何もすることが無く、五、六人づつ蓆の上で車座になり、今後の成り行きに付いて、語り合うばかりでありました。 見習士官殿の見通しでは、我々は連合国軍に武装解除され、一定期間捕虜として労役に従事し、その後、釈放されるであろうと云う話で、それなら何とか命だけは助かると安心しました。 所が二十日の朝、シャベルと毛布と御米を入れた雑嚢を背負い、トラツクに乗り込んで、第一回の復員兵が、帰って行きました。 この分なら我々も捕虜ならず、家に帰れるらしいと云うので、今までショゲ返つていた連中が活気を取り戻し、あちらこちらから笑い声が聞こえて来ました。 その裡に備蓄されていた各種の航空食糧、たばこは金鵄が二千本、軍靴二足、毛布が三枚、巻脚絆が二足、なぞが配給され、今まで煙管に詰めた金鵄の廻し吸いをしていた連中が、半分ほども吸うと吸いがら入れに放り込むと云う、豪勢な事になりました。 何だ彼だと云つて頂いた品物の合計重量は八十キロ余りで、これを体重六十キロの小生が担ぎ、二十六日に復員しました。 小生が看護を務めた上等兵殿は、敗戦の日まで竹の杖を突き、痛々しくよろめきながら便所に通つておりましたが、敗戦の日を境に、急速に健康を回復された、と云うより最初から仮病だつたようで、敗戦後、一週間余りで元気になり、小生に荷物の担ぎ方を指導してくださいました。 重い荷物は T 対 2 の寸法比に纏め、横長に背負い中心点を首筋の真下に置き、上手くバランスを取ると、体重の倍程度の荷物を背負うことが出来るのだそうです。 仮病上等兵殿の指導宜しきを得て、小生も八十キロ余りの荷物が背負えたのであります。 欲と二人連れとは云え、随分と重かったですが、兎も角我が家に辿り着き、靴脱石に荷物を下ろすと、其の儘動けなくなりました。 そこにおふくろが帰つて来ました。 映画でやれば此処はいい場面で、先ず おふくろのロングが有りまして、小生のセミログとなり、おふくろのアップ、ここでキラリと涙が光り「お帰りーー」と云うセリフ、小生のアツプとなり、「うん」と頷き親子がお互いに眼を合せる位の芝居となるべきですがーーーー、現実は誠にそっけないもので、おふくろは廊下の硝子戸を急いで開き、荷物をずるずると引きずり、茶の間に運び込むや否や、素早く包みを開き、中身を点検し始めまして、わが子を省みる暇も無く、まずタパコは、航空食、ビタミン食、活生鉄飴、代用チョコ、なぞを有り合わせの空き缶に、誠に手際よく仕舞い込んで、靴下二足に詰めたお米は米櫃に空けると、復員して来た倅をジロジロと眺めながらの第一声が「お前、虱を背負ってきたんじゃないかいーーー」と、着てきた物を脱がされて、風呂場で水をかぶり、なけなしの石鹸で体を洗いました所、痛快な程ポロボロと垢が出まして、垢を落としたら非常に眠くなり、蚊帳に潜りこみ眠りに付いて、目がさめ翌日の十時頃でした。 巷の予測では、鬼畜だと思っていた、米、英の兵隊はフツーの外人で、子供にちょこれーとなぞを呉れたり、オバサン達に愛想が良く、黒くて怖い兵隊もいるが、ゲーリー、クーパーの様な良い男も居て、不思議な事に士官が通つても兵隊は敬礼をしないと云う話でした。 何もする事が無いから、暫くは焼け跡の整理をして居る様にと云われて、シャベルを手にし工場の焼け跡に出ましたが、随分色々なものが野積みになつて放置されていました。 例えば、戦闘機に搭載されて居た無線機の部品で、この種の無線機は高周波一段スーパーヘテロダイン送受信機でありまして、その部品が野積みになつて放置して有りました。 大変に勿体無いので、老生も少し拾つて帰りました。 極く大口に拾って、帰られた方が居りました。 陸軍少将のご令息でしたが、トラックを使ってごっそりと拾って帰られ、それを元手にして秋葉原駅前に露天を出し、会社を退職され大成功をなさいました。 酷い奴がいたものです。 噂によれば、食堂の倉庫に米、味噌、醤油の類が沢山あつて、こちらの方は然るべき筋の方が、早々に整理をされたとの事でありました。 アメリカが進駐して来れば、何も彼も根こそぎ没収されると云う噂でしたが、数名MPが来て常駐して来ただけで、別に変わったことも無く、拍子抜けがした次第です。 常に陸軍大将大元帥の軍装凛々しく、白馬に跨り英姿颯爽たる 天皇陛下 が、袖丈の短いモーニング姿で、マッカーサー元帥に会いに行き、私は如何なっても良いが、国民を困窮から救って呉れる様、懇願したとかで、一億の国民は大いに感涙に咽んだのであります。 マッカーサーが日本の占領に成功したのは、一重に天皇陛下のお陰で有って、この事を一番良く知っていたのは、マッーカサー元帥自身だと思います。
その裡に徳田球一とか志賀義雄なぞが出獄して、日本共産党が再建されて、右往左派が続々と入党し、嘗て挫折した文化人も遅れじとばかりそれに続き、転向した人々も前非を悔いて自己批判して入党、共産党は意気洋々と1946年のテーゼなるものをブチ上げ、46年末までには民主人民政府を樹立し、北朝鮮の様な地上の楽園を日本に実現すると云う、大変な話になりました。 昭和21年、早々には野坂参三が中国から帰国した時、日比谷公園で大歓迎会が有り、歓迎の歌が作られ、大合唱が有ったと云う事で、共産党員である事が進歩的文化人の証拠で有るような、おかしな具合になつて来ました。 共産党に入れば、それだけで人民大衆の前衛で、意識の高い知的労働者であり、著名な学者、文学者が、戦時中の特高の迫害に耐え兼ねて、転向した前非を悔い改め、続々とし復党し、共産党のブチ上げる所の1946年に、民主人民政府が出来上つた時、然るべきお役に就けるように努力していた様です。 戦争に負けて秋が深くなつた頃より、主食を始めとした配給品が滞ってきました。 巷に伝わる話では、終戦時に軍部は約四年間の交戦に耐える、物資を温存していたと云う話が巷間に伝わっておりました。 それが何処にどう消えたかは今だに闇の中ですが、何らかの目的で、然るべき何者かが隠匿したのに違いなく、そういう物が闇市に出回り、誰かが大いに儲けた事と思います。 共産党の指導者は、過去に天皇や、財閥が、人民大衆から絞り取ったものを取り返せと云うばかりで、朝連が隠匿している物資や、その筋が押さえている物資の摘発、農村に入り込み供出を渋り隠匿している悪徳農家の摘発なぞは一切行はず、官憲の無能を責めるばかりでありました。 兎も角、ささやかな闇市が初め焼け跡の道路に、コザを敷いたり戸板を並べたりして、商いをしていましたが、あっと云う間に焼けたトタンや葦ズばりのバラックとなり、新宿は今の歌舞伎町あたり、渋谷はハチ公前の広場から井の頭線のカードぞい、新橋は今、蒸気機関車が置いてある広場、なぞに忽ち露天が並び、ここに来れば何とか日々を過ごすに足りる品物が揃いましたが、値段は配給品の5倍くらいであつたと思います。 しかし、こうして隠匿された物資と、農家が供出を故意に怠り、隠匿していた農作物の闇売りで、国民は命を繋いだ結果、GHQの予測した日本人の飢餓による死者1000万人と云う予想が外れ、闇をやらず栄養失調で亡くなった、東京地検判事山口良忠氏の死-亡が新聞種になる程珍しい事なりました。 これが正当に国民に提供されていれば、前記の山口判事のような方が、ちゃんと配給で生きて行かれたのだと思いますが、旧、陸海軍の指導者、内務官僚が敗戦のショツクで呆然としていた時、ハシッコイ目先の利く何者かが着服し、戦後、闇市に持ち出して、元手要らずの大儲けをしたのだと思います。 第一次大戦後にドイツが経験した悪性インフレは、ビールの一杯目と二杯目では値段が違ったと云う話を聴いていますが、我が国のインフレも酷いもので、稀にある配給品を買うとき以外は銭と云う単位は通用せず、闇市での物価は全て円と云う単位になつてきました。 何が驚いたと云つて、これ程の大事件はありませんでした。 新円切替を公布したのが、昭和21年2月17日で、翌日から預金が封鎖されて引き出せなくなり、旧円は五円、一円の小額紙幣を除き、全て銀行に預け入れ、新円切替の期日が3月3日、引換えの限度は一世帯あたり500円、10円札100円札の印刷が間に合わないので、郵便切手半分位の大きさの、証紙を張って3月3日以降使用すると云う騒ぎで、この2週間の間に取っておきの5円札、1円札が無くなると、買い物が出来なくなりました。 闇市の物価は7円とか8円になつて、100円札、10円札では売って呉れず、5円札と1円札を出さないと売り渋り、お釣りは要らないからなぞと懇願しても、全然相手にしてくれず、我々善良な国民は困り果て、悪い奴に取っては儲け時であつたようです。 ナントカの宮妃殿下のお里方、ナントカ子爵が、この窮乏に耐え兼ねて、自殺をされると云う痛ましさでありました。 3月3日から使用する100円札に貼る証票を闇市に持つて行くと、買い物が出来るとか、嗜好品や米なぞを持ってゆくと証紙と取り替えて呉れるとか、色々と噂がありましたが、こうした噂は多分事実であったろうとおもいます。 この結果、新円交換後暫くは闇市は火の消えたような具合で、物価もかなり下りました。 使えるお金が月に500円では、買い手も手控えますから、闇市も一時、火が消えたようになりました。 1947年(昭和21年)2月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。 この税金は、10万円以上(今の価値に直すと5000万程度以上と思います)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。
これは微かな記憶で云うのですが、支那事変の始まった頃、100円の月給取りは中産階級に属していました。 当時、定期預金の金利は。年間5%でありましたから、10万円の預金は5千円の利息を生み、月収416円となりまかが、一流会社の部長クラス、軍人ならば少将の月収と同じでした。 この時、昭和天皇の個人的資産は30億円であつたそうです。 共産党の徳田球一委員長、ニユース映画で曰く「天皇の財産は国民から絞り取ったものであります、持ち主の手に返すのは当たり前であります」それはともかく、かくて日本の天皇家は、世界中で一番貧乏な王室となりました。 この頃、公職追放と云うので、戦前偉かった官僚や、財閥系会社の偉い人の首がスゲ代わり、支配人とか部長とか言う役職の人が、突如として社長になり、周りもビックリしましたが、一番ビックリしたのはは当人で、獅子文六先生が小説にし、面白可笑しく書きたて、東宝で映画にもなりました。 成り上がり社長は河村零吉で、秘書課長が森繁久弥でありました。 ここで、幣原喜重郎内閣が、吉田 茂内閣と交代しました。 吉田内閣になり、500円の箍が緩んで、再び闇市が盛んになりました。 昭和22年1月1日、吉田総理が年頭の辞で挨拶しました。「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。」続けて「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない」不逞の徒とは、労働組合指導者、つまり共産党員を指すものだと云うので、徳球さんは禿げ頭から湯気を立てて怒り、全国労働組合闘争委員会傘下組合が、宮城前広場で気勢を挙げ、国鉄労組の伊井弥四郎委員長が2月1日にゼネスト決行をぶち上げました。 この不逞の輩がストを打つと、国鉄、通信、郵便、学校が機能停止をします。 この混乱に乗じて、一気に民主人民政府を押し立てると云う噂が有って、もしかするとと云う気がして居ました。 1月31日は雪で酷く寒い日でした。 ラジオのゼネスト関連ニユースを炭団入りの炬燵に入って聴いていましたが、GHQ の命令で午後11時頃、ストは中止されたと放送が有り、われ等、善良な輩はホットしたのであります。 巷の話では、マツカーサー元帥はアメリカ大統領戦に出馬する意向があつて、アメリカ労働組合の支持を得る必要があるので、日本のストライキ弾圧を躊躇していたと云う話があります。 かくて、GHQは日本共産党の守り神ではなくなり、この日を境に日本共産党の地盤沈下が始まりました。 都市部では、労働組合が次々に結成され、この組合を牛耳って居るのは共産党の息が掛つており、農村に小作人組合を作つて、一挙に民主人民政府をなぞと、目論みオルグなぞ送り込み、さて此れからと思う所に「農地解放」で、地主から国が農地を買い上げ、小作人に払い下げ自作農にしてしまいました。 昨日までは小作人組合結成に熱心だつた人たちは、三反百姓になつたトタンに共産党に背中を向け、丑を午に乗り換えて、保守党贔屓になりました。 これでおおいに利益を得たのは、都市周辺の農家で、濡れ手で粟の九百坪の地主様に納まり、大いに余生を楽しんでいる、幸せな方が大勢いらっしゃいます。 誠に羨望に堪えぬ所でありますが、倅が相続税を払うに当り、地価は更に上がると判断し、税金の支払いを分割金納にして、苦しんでいる方も居りますので、持てる者の苦しみと云う事も有るのだと、自ら慰めている次第であります。 焼け跡に蓆や茣蓙を延き、仁丹の看板が被つて居る様な、帽子から藁草履まで、並び闇市が開店しました。
闇屋の真似も楽ではありませんで、配給は遅配欠配していても、食料管理統制法とかで、私鉄、国鉄の主要乗り換え駅では、取り締まりが有って、此れに引っ掛かると苦心して手に入れた品物を没収される始末でした。 専業の闇屋が抜かりなく、偵察者を出しており、取締りをやる駅の一つ手前で「やってるぞォ」教えて呉れると、乗客の殆どが電車を降り、電車はガラ隙になり、リックサツクやズタ袋を背負い、両手に風呂敷包電みを下げた乗客が隊列を作り、都電の停留所に急ぎ、北千住、上野を通り抜ければ、まず無事に我が家に帰る事ができました。
巷の噺によれば、マックアーサーが連隊長でウロウロしていた時分、吉田 茂総理大臣はイギリス駐在大使であつたとか、だから、マックの云う事を素直に聞かず、何だ彼だと許される範囲で、色々と抵抗をしたと云うので、何だ彼だと風評はありましたが、この人に対する国民の信頼は厚かったと思います。 GHQ に乗り込んで、食料の援助を申し入れ、日本人に餓死者が出れば、それはGHQの責任であると、云ったとか云う風説が有って、その甲斐あってか、軍用缶詰が5回ほど配給になりました。 今日で言えば、賞味期間切れか、その寸前か、缶がデコボコで軍用塗料が剥げた傷だらけな外観でしたが、大小様々な缶詰が配給所に詰まれ、くじ引きで当った番号の缶を渡して呉れるのですが、ペンキ缶程の大きさの物から、パイナップルの缶程のものが色々あつて、大きい缶を引き当てて喜んだ人が、家に帰り開けて見たら中身がスープで、あまり腹の足しにならずガッカリしたり、小さな方の缶は中身はーがコーンビーフで、ミツシリと腹応えが有ったり、色々でありました。
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