勤め人奮闘記
  昭和七年頃、2年の兵役を終えて帰ってくると、一人前と見られて、月収が45円から50円、一人前の勤め人として通用したそうです。 一流企業の会社員も、大工、左官、植木職と云った昔からの出職も、町工場勤めも、高学歴の務め人も、24才位までは、収入に大差はなくて、この年代を過ぎると、はつきりと格差が表れたようです。
 
 いずれにしても25歳から27歳で、所帯を持つ頃は50円から、70円の収入が有って、家族持ちなら一家の大黒柱でありまして、6畳に四畳半と3畳くらいの借家に住まい、家族を2、3人を養ぃ家族が干物と漬物に味噌汁でご飯を食べている時、一家の主は刺身で晩酌を飲み、大飯を食って当然とされて居りました。
 給料日なぞになりますと、貰ってきた給料は先ず仏壇か神棚に供え、一家でトンカツなぞを食べ、豪儀な気分になつて、食後、一家の主人は「今月は幾らいるんだ」と、給料袋の封を切り、要求額の8割程度を渡して、後は郵便貯金にして仕舞うのであります。
 
 只今では、カードなぞを持つて行き、暗証番号を入力して、ボタンを押すと貯金を下ろせますが、その昔は払い出しの伝票を書き、所定位置に印鑑を押さないと、貯金が下げられない仕組みでありましたから、一家の主が肌身離さぬ印鑑を持つている限り、細君と云えども貯金に手が付けられず、一家の主権は完全に家長が握り、予算を超過し追加を懇願されても、「オマエの遣り方が悪いんぢゃないかーーー」なぞと素直には追加に応じず、色々と訓戒があつて後、印鑑を渡されたので有ります。
 女房に峻厳である亭主は、自分には頗る寛大で有りまして、小遣銭に不足を来たすと適当に貯金を下ろして、不足分を補う事が出来ると云う、大層な権限が有ったのです。
 
 その権威が失墜したのは、大東亜戦争敗戦を契機としております。
戦時中、直接軍用の機材の製造に当たっている人間は、産業戦士と称しておりまして、お米の特配がありましたし、長時間残業と云うことになると、夜食の配給がありまして、比較的恵まれておりましたが、大東亜戦争敗戦後は全く事情が変わって参りまして、食料品の特配は無くなり、しかも主食の配給が滞り「社会党片山内閣」が三合配給を任せろと言うので、大いに期待しましたが、この内閣の時、配給制度が崩壊し、食料事情が極端に悪くなり、主食の配給が滞り、遅配が欠配となり、闇で食料品をてに入れなければ生きて行けない仕儀となりました。
 当時、社会党は日の出の勢いで、主食の三合配給は我が党に任せろと仰るので、それを信じたた国民の支持で、社会党内閣が出来上がり、大いに期待致しましたが、党内の左派と右派の主導権争いに忙しく、国民の食生活にまでは手が廻らなく、玉蜀黍の粉、豆滓、が主食として配給され、欠配と称して食料品の配給が出来なくなると云う事態となり、片山 哲首相が嘆じて曰く「食料事情が、これほど悪いとは知らなかった」と言い出す始末でありました。
 
 ここで奮い立つたのは、母親達でありました。
 彼女達が如何に奮闘努力をしたか、涙無しでは語り尽くせず、思い出すだけで涙が滲み、キーボードが見えなくなる程なのであります。
 紙幣はお米の買出しで役に立たず、物々交換で無ければ、米や小麦、サツマイモやジャガイモは手に入りませんで、最初は衣類や装飾品、時計なぞにお金を付けて、何とか手に入れていましたが、やがてそんな物では良い顔をしなくなり、買い出し先の農家は、酒とかタバコを持つて来いと云い始めました。
 
 
 ここで余談を入れますが、どうして手に入れるのか、進駐軍の物資、タバコ、石鹸、毛布、デコポコになつた缶詰なぞを横流しする人が居りまして、この人が、三月雛のお駕籠や牛車、五月人形の鎧兜、羽子板、なぞを集めていました。
 日本を占領して、復員するアメちゃんが、何か土産と思っても、東京は焼け野原で、闇市にも碌なものは有りません。
 アメちゃんの御土産に成りそうな物を集める人が出てきた訳です。


 
明治の中ごろまで、三流絵師が武者絵や、役者の似顔画、羽子板の役者画、性教育用の錦絵なぞを描いて居たそうで、幼少の頃の老生は、このお兄さんとお姉さんは何をしているのか、甚だ理解に苦しみましたが、老生宅にもそう云う画家が描いた、性教育用の絵が戸棚の隅に押し込んでありました。
 これを見た彼の闇屋が、「こいつは、いいやーーー」と喜び、ラッキー30箱とラックス石鹸10個で、引き取って行きました。
 アメちゃんおおいにお気に召し「ベリィベリ、ナイスネ、ハウマッチ」と云うことになり、「ハウマッチ、ノーね、シンガレット、オーケーね」てな訳で話が纏まり、闇屋のおじさんは随分と儲けたのだと思います。
 我家も此れで随分と潤い、よその小母さんが、外国人の写真を見せたら、「そんなのは珍しくねぇから駄目だ」断られたそうです。
  我家に例をとるならば、我が母親は当時63歳の婆さんでありましたが、この時期の活躍ぶりは正に瞠目すべきものがありました。
 我が家だけては無く、大方の家庭の主婦は、才覚の限りを尽くし、亭主子供を養ったのであります。
 給料を全て女房に渡し、後は何とか才覚してくれと云と、家事を託し我が国を焦土より復興させる為に、心血を注いで働いている亭主は、何時の間にか経済的主導権を失って仕舞ったのであります。 
 
 アメリカは女性の威張っている国であり、それが文化の程度を示すバロメータで、当時、精神年齢12歳であるとGHQ に判定され、女権を尊重せず、映画の中で恋人同士が、接吻をしないのは非文化的であると云う事でありましたから、米兵とバンパンガールが、往来でチュウチュウやる事や、アメちゃんがパン嬢の荷物を持つて、得々としている文明的行為を見習わせられ、女房の荷物を亭主が持ち、「アンタ、何やつてんの、しっかり持ちなさいよ、男でしょ」なぞと叱咤されと云う、甚だ不本意な仕儀となつたのであります。
 昭和30年、時の首相、池田勇人氏が国会で、華々しく「最早戦後では無い」と、高らかに宣言され、亭主の給料で一家を養い得る状態になった時、且つての輝かしき一家の主権は、完全に主婦の手に移って仕舞ったのです。
 
 しかしながら給与と賞与の明細書が手書きであつた頃は、これを改竄修正して、多少は浮かす余地がありましたが、コンピータ処理が進むにつれ、振込みなぞと云う甚だ味気ない給与支払い方法が採用され、主婦の管理下にある通帳に振り込まれ、一家の経済的主権と権限は主婦の手に移り、一家の主人は昼飯がら、焼き鳥屋の付き合い、冠婚葬祭の出銭まで、定額の小遣いから捻出する事になつたのであります。

サラリーマンとは如何に   難しい稼業であるか就いて 嘗て、植木 等 と云う、天才的なコメデアンが居りまして、この人が無責任男を自認して、サラリーマンは気楽な稼業と唄いまして、これが爆発的にヒットし、世間の人々は「サラリーマンとは気楽な稼業」と信じるにいたりました。
 植木 等先生は、芸能界と云う最も世に出るのが難しい社会で、スイスイスィタラッラッタと第一級のコメデアンになり上がったのですから、百年不世の才能に恵まれて居た人で、サラリーマン稼業の難しさ、苦労なぞは物の数に入らないのであると思います。
 しかしながら勤め人稼業40年の小生に云わせますと、勤め人と云えども其れを生業と致しますと、極めて大変でありまして、よそ目には気楽な稼業と見えましても、決して気楽では無いのであります。                                        

 写真は変わります
 嘗て、植木 等先生は無責任男を自認して、サラリーマンは気楽な稼業と唄いまして、これが爆発的にヒットした事により、世間の人々は「サラリーマンとは気楽な稼業」と信じるに至りました。
 女房、奥様、なぞが、この説を固く信じ「アンタはいいわね、気楽な稼業でーー」と言い出す始末となり、近時に於いてはこの傾向がいよいよ強まりまして、亭主族の苦悩は強まるばかりになりました。  
 さて、前置きはこれ位にして、本題に入らせて頂きます。
 昔から男子は家庭を一歩出ますと、七人の敵があると云う事になつており、新入社員は兎も角として、職位職階が上がりますと、四方八方が敵だらけとなり、出る杭は叩かれ、進む足は引き張られ、功績は無視され、失態は大きく取り上げられ、飲み屋での話題は共通のライバルの陰口で、このテの話題は興味深々として際限なく続くのでありますが、こうした事で世の鬱憤を晴らしておりました。
 余談になります。
 人事異動と云うのは、極秘の扱いになっておりますが、知らぬは当事者本人ばかりで、周りは皆が知つている、なぞは珍しくないのでありますが、これは偉い人のお茶汲みの御姉さんが、情報元で有るらしいのであります。
 こういう話題も飲み屋で、焼酎の肴になるります。
 此処で大いに関心を持たれるのは、誰が上司として廻ってくるかーー同時期に入社した奴の昇進動向であります。
 35年から40年の在職期間で、良い上司に巡り会えるのは。2回か3回であります。
 極端に悪い野郎と出会うのも、粗々同じ程度であります。
 良い上司は事に望んで「この件は君なら出来る筈たから、上手くやつておいてよ」てナ事で、細かい事は云わずに任してくれます。
 悪い上司と云うのは、好い加減な思いつきで事細かに仕事の進め方を指示し、「君はこう云う場合に、きっとこう云うミスを犯すと思う、キミは何故こう云う事をするのだ、怪しからんーーー」と実に変な話になり、此れに付随して色々とお説教が始まるのであります。
 このテの人間は態度尊大で、自己には頗る寛大で、部下のミスを咎めること誠に峻厳であり、家庭にあっては女房殿の尻に敷かれ、その鬱憤を会社で晴らしているなぞと噂されているのであります。
 
 ここで余談を終えます。   
 以上、縷々とのべました如く、勤め人はこう云う環境の中で、家族の為に必死になつて働いているのであります。
 
 父の日なぞには、豪華に仕出し料理を取り寄せ、「高級ウイスキー」なぞと共に年より派手なネクタイなぞも贈るべきなのであります。
 しかる後に心を込めて「お父さん有難う」と敢えて、言葉に出して云うべきであります。

 恐らく、お父さんは戸惑い、且つテレて、果ては薄っすらと涙を浮かべるでありましょう。
 そして、お父さんは、更に気力を奮い起し、家族の為に更なる奮闘努力をするのであります。
 
 お父さんを大切に致しましょう。

          
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