昭和一桁代には、年頃の娘さんが居る家の三軒に一軒は、三味線がありました。
町内には五目屋と云う、長唄、常磐津、清元、新内、端唄小唄、都々逸なぞ、何でも教えて呉れるお師匠さんが居て、昼下がりから夜にかけて、チントン、ペンペンと稽古三味線の音が聞こえてきました。
何か寄り合いが有つて、ささやかにお酒が出ると、小唄、端唄、それに都々逸、なぞを得意とする小父さんが居て、近所の長唄、小唄、端唄、常磐津、清元、新内、等々何でも一通り教えている、五目のお師匠さんが来て、伴奏を勤めてくれ、道楽者だと評判のおじさんが、隠し芸の真打格で、義太夫、常磐津、清元、新内のサワリを一節やつて、ヤンヤと喝采をされて居たそうです。
三味線に乗せて、語り物や歌を唄うと云うのは、下町から出たもので、歌舞伎芝居や花柳界が発生源ですから、士君子は此れを町人の遊芸と軽蔑し、この種の芸事を趣味として持つことは、一応禁じられていました。
しかし、御大身の殿様でも、遊びの場所に出掛ければ、かくし芸として好いノゾを聞かせたろうと思います。
岡本綺堂の随筆に、朝湯で清元を一段語り、「お喧しゅう」と風呂を出る大工さんの話がありますが、こういう人は明治と云う時代が終わると共に存在しなくなりまして、常磐津、義太夫も大正の初頭には廃り始め、「浪花節」が台頭してきました。
唄は、小唄、端唄を宴会で唄う人が減り、都々逸が流行りましたが、これは 柳家三亀松と云う稀代の名人が、寄席で昭和三十年台まで、盛んにやつて居ましたが、この人が居なくなり、火の消えた様に都々逸は廃りました。
芸者衆を揚げて、御陽気に遊ぶと云う、旦那衆も社用族も居なくなり、キヤバレーやらクラブなぞと云うところで、ご接待が行われるようになり、三味線の音は殆どなりやみまして、民謡の伴奏と踊りと歌舞伎で聴くばかり、いや誠に寂しくなりました。
これに変わりまして、ただ今は「カラオケ」全盛で、老生なぞは音痴でありますので、行つた事は御座いませんが、ナントカ倶楽部と称する宴会場て、額に汗して熱唄される方々の様子を拝見する機会がありますが、機械の伴奏でありますので、歌い手の調子に合わせてくれませんで、調子が外れる所なぞ、微笑ましいのであります。
大家さんの義太夫の話が古典落語にあります。
寡って部長の小唄と云うのがありました。
今や課長のカラオケと云うのがあるそうです。
こうなると、事情が少し違いまして、「ようよう」なぞと囃して、如何なる場合でも絶讃しなければならないのであります。
こうした方々は、歌いながら、部下の様子を観察して居り、熱心に聞いて居らず、かつ拍手なぞをしない奴に目を付けて居るのであります。
こうした連中は、当然、査定で当期の成績芳しくなく、不景気な目に合わされるのであります。
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